執事 パウラ 麓 敦子
平和を実現する人々【マタイ5:1〜12】
民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたイエスの噂を聞いて、方々から大勢の群衆が集まって来ました。イエスは山に登り、これらの群衆に向かって口を開かれます。「心の貧しい人々は、幸いである」…今週は、イエスの教えが集められている「山上の説教」の冒頭のこの箇所が、私達に与えられました。「○○の人々は、幸いである」、同じこの形式で繰り返される8つの教えに触れる時、一方には、このようなイエスの教えとは反対に、神様など必要とは思わず、自信に満ち溢れて生きている人々がいることを思い知らされます。「『世界で最も裕福な8人が、人口全体の下位50%を合わせた額と同じだけの資産を握っている』世界」、私達は今、このように大きく歪んでしまった格差社会の中に生きています。
神様が預言者として召されたのは、自信が持てずにいる、人間的な見方をすれば弱い人ばかりでした。イエスが共に歩まれたのもまた、健康で自信に満ち溢れた人々ではなく、病気や貧困に喘ぐ人々、罪の意識に苛まれる人々でした。
一部の人々だけが心地よい生活に満ち足りている現代のこの世界を、平和な世界と言うことはできません。誰かの悲痛な叫びや飢え渇きを踏み台にして享受されている快適さや、自分第一、自国第一という考えのもとで築かれた平和は、平和への幻想であり、不幸であるのだ、ということをイエスは山の上から私達に語りかけておられるのではないでしょうか。
コーヒーメーカーがコーヒーを作り出す音を耳にする時、いつも私は、まるで持てるすべての力を絞り出すかのような音だなあと感じます。役目を終え、生ゴミとして捨てられるコーヒーの粉と引き換えに、コーヒー好きにはたまらないあのなんともいえない香りが辺りを包み、ポットには美味しいコーヒーが沸き立ちます。「平和を実現する人々」を、ギリシア語の原典に忠実に英訳すると「ピースメーカーズ」になるのだそうです。
家庭に居場所がなく、満足にご飯を食べることができない子どもたちのために、80歳を超えた体に鞭打つようにして、来る日も来る日も子どもたちのためにご飯を作り続ける人がいます。「どうしてそこまでして働き続けるのですか」と尋ねられたその人は、「みんな、私にそれを聞くけど、なんでだろうね?」と笑いながら首をかしげておられました。
「平和な世界を実現しなくては」と考える時、私達は、「誰もが平和に暮らせる世の中などきれいごとだ」、「人は罪を犯す者だから、戦争などなくなるはずがない」、という無力感の誘惑に呑み込まれてしまいそうになります。しかし、イエスに従おうとする私達には希望があります。それは、私達が十字架につけたイエスが、復活されたという事実によって示される希望です。イエスは神と等しい身分であったにもかかわらず、あえて人々の痛みをその身に引き受けることによって、逆境に喘ぐ人々に平和をもたらされました。
平和を実現するために生きよと召されている私達に求められるもの、それは、力の強さや雄弁さや財力という「強さ」にではなく、苦しみや悲しみや痛みを味わう中で、自らの力の限界に打ち砕かれているという「弱さ」にこそ価値を置く生き方なのではないでしょうか。