司祭 エッサイ 矢萩新一
「喜びを待つ」
今年はクリスマスの25日が日曜日にあたりましたので、降臨節がちゃんと第4主日まで守れ、しっかりとクリスマスの準備の期間が過ごせたと思います。私たちは、イエスさまの誕生を待ち望む季節を大切に過ごします。そのクライマックスがイブのキャンドルライト礼拝です。
私たちは、日常生活の中でも、来るべき日を待つ、という経験をたくさんします。もういくつ寝ると…とお正月を待つ歌があったり、遠足の日が近づけばお菓子を買いに行ってリュックに荷物を入れて待ちますし、祖父母の家に行く日を楽しみに数えたり、サンタさんにプレゼントしてほしい物のリストを作ってクリスマスツリーに忍ばせてみたり、テストの日やその結果はあまり期待して待つことはないかもしれませんが、合格発表など緊張しながら待った経験があると思います。大切な人と会える日を楽しみにして待ったり、子どもが産まれる日を楽しみに待ったり、お孫さんたちが来る日を楽しみに待ったりと、私たちは人生のいろんな場面で、結構待つという経験をしています。
しかし、多くの場合は、比較的高い確率で実現することを知った上で、その時が来ることが分かった上で待っています。70年前の日本では、戦争に駆り出されていつ帰ってくるのか分からない夫や息子の安否を想い、心からその帰りを待ち望んだ人たちがどれだけたくさんおられたでしょうか。結果の見えない、先の見えないことを待つという経験を私たちはどれくらいしているでしょうか?
今の子どもたちと昔の子どもたちを比べてみても、待つという経験が少なくなってきていると思います。戦中戦後の時代を過ごされてきた方は、欲しくても手に入れられない、我慢して待つしかなかった経験も多かったとお聞きします。今はどうでしょうか、都会では5分も待たなくても電車が来ますし、24時間買い物ができる店やコンビニが近くにあって、物質的には豊かな時代です。しかし、待つことや、忍耐すること、我慢することがどんどん苦手になってしまっているように思います。私自身も含めて、家の中を見回してみますと、どれだけ使っていない物に囲まれて生活しているかを思い知らされます。
宗教は待つということを大切にします。特にキリスト教では待つということが聖書の中で多く語られます。旧約の時代には、神さまの救いを待つ人々の物語や預言者の言葉がたくさん記されています。メシア、救い主の誕生を待ち望み続けて何千年という年月を重ね、イエスさまがそこに誕生します。1年2年、10年20年という長さではなく、果てしない何千年という間、待ち望まれ続けてきたのがイエスさまの誕生です。また、新約聖書では十字架で死に、復活して天にあげられたイエスさまが、再び来られることを信じて待つことを教えています。私たちは、その教えに従って、聖餐式のはじめに、「主イエスキリストよおいで下さい」と呼びかけ、再び来られる時まで続けなさいと言われた、主の聖餐、食卓を囲む聖餐式を守り続けています。聖餐式の感謝聖別文の中で「私たちのうちに働く力によって、私たちの求めまた思うところの一切を、はるかに超えてかなえて下さることが出来る方」と、告白している方に信頼して、イエスさまが示してくださった愛と平和を常に心から待ち続けている共同体が、教会だということを覚えたいと思います。
クリスマスを迎えた私たちは、心から信じて、準備をしながら待つ姿勢を持てているか、イエスさまの誕生を天使から予告されたマリアさんが「お言葉通りこの身になりますように」答えたように、信頼して待つ姿勢を持てるかどうかが問われているように思います。
神さまはいつもあなた方と共にいると宣言され、必ず来ることを約束して下さったイエスさまは、すでに私たちの近くに生きて働いておられます。そのことを再発見するのもクリスマスの喜びです。
イエスさまは2000年前のどこか遠いところにお生まれになったのではなくて、私たちの隣に、私たちの心の中にイエスさまをお迎えすることが、クリスマスの大きな喜びであることを噛みしめたいと思います。
クリスマスおめでとうございます。