司祭 マーク ウイリアム シュタール
【イザヤ書35:1−10、ヤコブの手紙5:7−10、マタイによる福音書11:2−11】
降臨節第3週のみ言葉は全て同じメッセージを伝えています。喜ぶべき時が来た。旧約聖書イザヤ書ではこれをいろいろな方法で示しています。今日はこのイザヤ書(35:1−10)のメッセージを見てみたいと思います。
これは予想ですが、イザヤは大きな期待をもってこの預言を語っています。エルサレムの民がバビロン捕囚からやっと帰って来たことをイザヤは大変喜んでいます。民が神様に与えられた土地にまた戻って来ました。しかし、この喜びのさなかにあって、イザヤはもっと偉大なものに目をとめました。確かにエルサレムは回復され、喜びの地になりました。「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。(6−7節)」神様の業が成し遂げられたと思われました。しかし、神様の約束はもっと大きく、これで終わりませんでした。
この喜びの約束は10節に書かれています。「とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。(10節)」ある意味、エデンの園で告げられた呪いを主はひっくり返されたわけです。(創世記3:19にその呪いがあります。)「お前は顔に汗を流したパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創3:19)」対照的な呪いの言葉です。
神様の癒しが訪れ、この呪いはひっくり返ります。3節にあるように、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。(3節)」この癒しが人々にやっと来ます。さらに、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる、口の利けなかった人が喜び歌う。(5−6節)」イスラエルの民から引き離され、奪われたものは再び戻される。そして、もっと大事なことは神様と人間の正義、人間と神様の関係が回復されたことです。
イスラエルの民にとって、この喜びと癒しは大変な驚きでした。4節です。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』(4節)」そして、8節です。「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。(8節)」ここでもエデンの呪いは解かれます。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。 お前は、生涯食べ物を得ようとして苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。(創3:17〜18)」この呪われた土がイザヤ書で劇的に変わり、神様の豊かな正義という恵みが注がれます。
しかしこの正義はいつ注がれるのか?バビロン捕囚から解放されたほとんどユダヤ人の生活は良くなりましたが、神様が約束したほどではなかった。何百年もたってから、ヨハネが黙示録の中で同じような約束をしています。「 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』(黙21:1, 3〜4)」そのとき、神様はわたしたちにこの世の完全な調和をもたらしたのです。それはエデンの園の時から神様が意図したことでした。