2016年11月27日      降臨節第1主日(A年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

 降臨節を迎えました。イエスさまの到来を待ち望む準備をする期節です。しかし今日の福音書【マタイ24:37−44】には救い主の誕生を待つことには触れていません。むしろキリストが再び来られる日を待つことのほうに重点が置かれています。それはいつ来るか分からないので「目を覚ましていなさい」と言われます。考えてみれば、私たちの人生の一寸先は闇のようなもので、そこに何が起こり、何が待っているのか誰も予測がつかないものです。
 先月、90歳になる母が道で転び、右手首を複雑骨折し、入院・手術を余儀なくされました。幸いにも高齢者にはリスクが伴う手術を乗り切り、退院にこぎつけました。しかし92歳の父の老々介護には限界があり、当分の間リハビリを兼ねて近くのいきつけの病院に預かってもらうことになりました。現実を受け留めつつ、今をどう生きるかが身近なところから問われています。
 人間の定められた時というのは本当に分からないもの。思い返してみると、これと似たようなことなら沢山あるのかもしれません。そしてそのたびに「その日その時は知らない、ただ父だけがご存じである」とつくづく思います。今日の福音書では神さまの救いのご計画が進められていく一方で、人間がそれに気づかないというのです。日常生活に埋没している人のことを譬えの中では個人個人に起こることとして示されています。しかし、天に連れていかれる人の譬えは、「目を覚ましていたか」よりも、救いのご計画の主体が「神さま」にあること、その神さまの憐みの中に私たちがいることが示されます。それは、わたしたち自身が日常の忙しさの中で忘れることと隣り合わせです。だからこそ、思いがけない時に人の子がやってくるという形をもって神さまが働いておられることをわたしたちに気づかせようとしておられるのです。どのような時であっても神さまが働いておられることに、私たち一人ひとりが目を覚ますことができますように。