2016年11月20日      降臨節前主日(C年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

「正しい若枝によって平和がもたらされる」【エレミヤ23・1−6】

 本日の旧約聖書はエレミヤ書第23章1節から6節です。エレミヤは紀元前650年頃にユダヤ南部に存在したユダ王国で生まれ、活躍した預言者の一人です。この当時のユダ王国の国王であるマナセ及び国民は偶像崇拝を行っていました。またユダ王国は正しい裁判が行われず、堕落し、国民は純粋な信仰を失っていました。そんな中で、エレミヤは20〜23歳の頃、誰かが立ち上がって、人々の信仰が腐敗しても神の罰はないのかと願いながら、思い巡らしていました。そんな時に主である神様の言葉がエレミヤに臨みます。エレミヤは自らが預言者になろうとは思いませんでした。最初、エレミヤは「若者に過ぎない」と言って拒否します。しかし、主は「若者に過ぎないと言うな、恐れるな。必ず救い出す。」と言います。押し問答の末、エレミヤは預言者として歩むことを引き受けることとなりました。エレミヤは神様の言葉を唯一の武器として、およそ40年間ユダ王国の人々に預言をし続けたのでした。

 しかし、当時のユダ王国の政治家、宗教家及び支配層の人々及び一般の国民はエレミヤの預言、忠告を聞くことはありませんでした。エレミヤが偶像礼拝をやめ、主である神様に立ち返るように言っても、戦争をやめるように言っても決して聞くことはありませんでした。それどころか、彼らはエレミヤを非国民と言い、命を狙ったりしました。そして、ついにユダ王国はバビロンに攻められ、首都エルサレムを陥落させられてしまいました。バビロン軍は王を連行し、さらにエルサレムの王宮、民家も焼き払い、生き残った人、ことに多くの有能な人を捕らえ、バビロンへ連行します。これがバビロン捕囚です。このような捕囚が2回も行われ、ついにユダ王国は滅亡してしまいました。

 ユダ王国に残った国民も、バビロンに捕囚として移住させられた国民も希望が持てません。暗黒の状態にありました。そんな中、エレミヤが預言したのが本日の福音書の箇所です。その箇所の5節に「若枝」という言葉が登場します。この若枝は救い主が登場することを示す言葉です。この救い主はダビデの子孫であり、この救い主の登場により、ユダ王国、イスラエルは救われることを伝えています。

 この「若枝」に注目します。若枝といえば、植木の剪定作業を思い出します。剪定するとき、古い枝は葉も枯れそうになっており、弱っているので、簡単に切ることができます。ところが、若枝は、ピーンと伸びていて、張りがあり、丈夫ではさみでものこぎりでも簡単に切ることができません。このように、若枝は養分が行き渡り、まだまだ伸びていきます。いきいきしています。芽がでてきて、これから美しいお花を咲かせます。旧約聖書ホセア書14章7節には「若枝」が次のように書かれています。「その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノン杉のように香る」と。若枝は生き生きと張りがあり、しかも美しく、立派な香りがします。このように立派で美しく、活き活きとした若枝が救い主です。その救い主の誕生によって、この救い主の登場により、ユダ王国、イスラエルは救われます。
 エレミヤはその若枝に例えた救い主が登場すると主である神様が言っておられると預言し、人々を励ましたのでした。そのエレミヤの預言は成就します。それが救い主であるイエスさまの誕生です。主である神様が救い主であるイエスさまを誕生させてくださるから、ユダ王国、イスラエルは救われるから、捕囚であったとしても希望を持って生きていこう、平和な世の中を実現しようとエレミヤは捕囚とされた人々に伝えたのでした。

 このエレミヤの預言は紀元前580年ほど前のユダ王国の人々にだけ伝えた預言ではなく、現在生きているわたしたちにも伝えている預言です。私たちの生きる現在はどうでしょうか。平和といえる状態でしょうか。神様の声に聞き従い、平和を実現している世の中といえるでしょうか。残念ながらそうではありません。紀元前600年と同じように、今日の世界には自分たちの力、軍事力によって、人々を支配しようとしている国が存在します。日本でも憲法9条があるから、戦争ができない状態にあるから、外国に見下され、領土問題が起きるのだと主張する人もいます。しかし、軍事力やパワーよって国を守ることそれは滅びの道であると主である神様は伝えているのだと、エレミヤは今日の私たちにも伝えています。そして、今は希望が持てないとしても、この世に誕生してくださったイエスさまが若枝のように、小さくとも活き活きとわたしたちの中にも存在しているので希望を持って生きていこうとエレミヤは今日の私たちにも伝えています。

 来週から、降臨節を迎えます。降臨節はイエスさまの誕生を待ち望むシーズンです。聖霊降臨後の最後の主日、降臨節前主日を迎え、若枝であり、救い主であるイエスさまが私たち一人ひとりの中に小さくとも活き活きと存在していることを見失わないようにしたいと思います。そうすることによって、エレミヤのようにわたしたちも希望を持って生きていくことができ、あきらめずに平和を呼びかけていくことができればと思います。