2016年10月16日      聖霊降臨後第22主日(C年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「気を落とさずに」【創世記32:4−9,23〜31、ルカ18:1〜8】

 私たちは、さまざまな時に、さまざまに祈ります。祈りの時、あなたは、どんな想いをもって祈っているでしょうか。聖書の物語のなかに語られている「祈り」に注目してみましょう。
旧約聖書の創世記のヤコブとエサウの兄弟の物語はドラマチックで、なおかつ重要なメッセージを含んでいます。
 アブラハムの息子イサクとリベカとの間に、双子の男の子が生まれました。この二人は性格がかなり違っていて、エサウはワイルドで狩猟が得意なアウトドア派、ヤコブは穏やかでインドア派。兄のエサウが一族の長を引き継ぐはずだったのですが、ある時ヤコブが作った豆の煮物と長子の特権を取り替えてしまったのです。母のリベカは、弟ヤコブが父イサクの跡継ぎになるべきだと考えたようです。リベカが策略を考えて、年老いたイサクをだまして、ヤコブが族長を引き継ぐ印となる祝福を受けるように画策し、それは成功しました。そのため、エサウは怒りからヤコブをいつか殺してやろうと考えるようになります。それでリベカは、ヤコブを遠く離れた親戚の所へ逃がします。ヤコブは、その親戚の元で20年間一生懸命働いて、多くの財産と家族を得ることになりました。そして、神様から自分の故郷に帰りなさい、という声を聞くのです。
 さて、そこからヤコブは悩みます。果たして、エサウ兄さんは、自分を赦して受け入れてくれるだろうか、それともまだ怒りが消えず殺そうと思っているだろうか。ヤコブはエサウ兄さんのところに使いの者をやって、たくさんの贈り物を届けました。
 いよいよ明日はエサウと再会するという日の前の夜、先に家族たちを川の向こう側に渡らせて、一人だけ後に残って何者かと夜通し格闘した、というのです。ヤコブはこの相手に「祝福してくださるまでは離しません」と言っているので、どうやら神様と格闘しているようです。でも変です、天におられる神が、地上に降りて来て人間と格闘するなど、聖書の他のところには出てきません。しかし、これは、ヤコブが夜通しひざまずいて必死になって神様に祈っていた、と解釈すると納得できます。
 ヤコブは、自分の罪深い行為を神様とエサウに赦してほしい、兄との再会が神様に祝福された和解の時となるように、と祈っていたのでしょう。そしてその熱い祈りは、「神と闘った」という形で表現されているのです。
 皆さんは、このヤコブのように必死になって祈った、という経験がありますか。熱心に祈れば、何でもそのとおりに実現する、というわけではありません。神様は、熱心に祈る一人一人を顧みておられ、その一人一人の「望む力」に応じて、私たちに生きる力を与え、希望をもつ力を与えてくださるのです。祈りは、私たちを強くします。ですから、どんなことにも「気を落とさずに」、絶えず神様に恵みと祝福を、祈り求めていきましょう。