2016年10月9日      聖霊降臨後第21主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

あの9人とともに【ルカ17:11〜19】

 この物語で気になるのが残りの9人のことです。このあと彼らはどうなったのでしょうか。因果応報的に考えれば9人の病が再発したとしてもおかしくありません。しかし彼らのその後について聖書は何も語っていません。ところで、この9人の姿から思うのは、わたしたちの人生の中でも、労して相手に尽くしたのに、ありがとうの一言もないときには徒労感が残るということです。人間でもこうなのです。まして神さまであればどうでしょうか。しかもその業は人間をはるかに越えています。にも関わらず、相応の見返りを求めようとはされません。いや、相応の見返りなど人間には到底できるものではありません。
 では、神さまが求めておられるのは何でしょうか。それに応えたのが、まさにこのサマリアの人でした。彼は戻ってきました。そして感謝しました。これをイエスさまは“信仰”と仰っています。ところで、彼の「感謝した」(16節)の原語はユーカリステオーです。この語は「十分な恵み」を原意として持ち、聖餐式(ユーカリスト)の語源となっています。だとすれば彼は聖餐の本質をその行為で現わしていると言えるかもしれません。まずは、彼は的を外さず、ふさわしいところに帰って来ました。それから「感謝」します。さらには、イエスさまの言葉(18節)によって、「感謝」は「賛美すること」「神に栄光を帰すること」と同じ意味であることが明らかとなります。加えて「立ち上がって行きなさい」(19節)は、ちょうど聖餐式の最後の「ハレルヤ、主とともに行きましょう」という派遣の祝福を思わせます。
 あの9人は途中で姿を消してしまいました。しかし、そうであるがゆえに、ある可能性を開いているように思われます。つまり、あの9人はある意味わたしたちではないのか。帰ってきたサマリアの人に起こったことは、あの9人に、それが故にわたしたちに、呼びかけられていると思われるのです。それはちょうど同じルカ15章の譬えの「99匹の羊」や放蕩息子の兄と似ていると思われます。神さまにとって99匹や兄息子は決してどうでもいい存在ではありませんでした。どちらもすでに十分な恵みは与えられています。そして、兄息子に対しては、父からの招きすら暗示されています。こうしてわたしたちは、本来帰る場所へと、あの9人とともに招かれているのではないでしょうか。言い換えれば、あの9人とともに、わたしたちは、感謝と賛美という選択の前に立つように、呼びかけられているのではないでしょうか。