2016年10月2日      聖霊降臨後第20主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

「受け容れることのできるように信仰を増してください」【ルカによる福音書17章5−10】

 信仰は奇跡を呼びます。
 長年の患いに苦しむ女性はイエス様の衣の房にさえ触ればこの病いは癒されるとひたすら願って手を伸ばしました。お言葉さえいただければ自分の部下の病いは治りますと言い切った軍人はゆるぎないイエス様への信頼の上にしっかり立っていました。そして、そこにイエス様の彼らの信仰に対する賞賛とまさしく桑の木でさえ山から海へと根を移すような癒しの奇跡が起こったのです。
 「わたしどもの信仰を増してください」。弟子たちはどういうつもりでイエス様にお願いしたのでしょうか。少しばかりの成功に有頂天になり、ちょっとした困難に会えば心が折れてしまう、まるで湖の波風に翻弄される小舟のような迷える弟子たちに自分自身を重ねます。だからこそどんなことがあっても恐れず、ぶれず、耐え忍び、寛大でありたい、できれば奇跡を起こしたいと、そのために弱いわたしの信仰を増してくださいと祈りたいのです。もっと大きく強い信仰があれば神様のために良い働きができるはずです
 しかし、イエス様は言われます。おまえにはからし種一粒ほどの信仰もないのだから奇跡は起きないと。このみ言葉を前に自分の来し方を振り返るとわたしが求めてきたのは使命に名を借りた「自己実現」であり信仰とはそのための手段ではなかったかと思うのです。確かにからし種一粒ほどにも及びません。病の癒しを願った女性や軍人のような純粋な気持ちも持ち得ていません。
 聖書の時代、家の僕は昼間の農作業から帰っても主人の命令であれば休む間もなく主人のための夕食の準備に取り掛かり、主人の食事中も傍らで給仕するのが当たり前でした。イエス様は「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです。』と言いなさい。」と教えられました。
 神さまや主人から命じられたこと、それを使命といいます。使命とは本来徹底して受け身です。自分から買って出るものではないでしょう。弟子たちは使命を買って出たためにそれをなしうる手段として信仰が増し加わることを求めたのでしょうか。イエス様は使命と信仰に対する誤解を戒められました。しもべの仕事はどこにでもある当たり前のことです。果たしたからといって当たり前であるがゆえに誰の賞賛も受けません。イエス様は弟子たちに桑の木を海に移しかえるほどの信仰を求めたわけでないと思います。ただ、置かれた場所で目の前にある「しなければならないこと」に誠実であろうとする姿勢を保てと命じられました。ガン末期のある方は「わたしにはまだ死ぬという仕事が残っております。」と言われました。わたしたちのまわりを見渡せばそのように使命を誠実に果たしている人はたくさんおられはずです。そのように生きる人のまわりには肩の力を抜いて受け身を貫き通すすがすがしい空気が漂っています。この方々は神様の前に立っても「しなければならないことをしただけです。」と淡々と述べるに違いありません。わたしたちもひとりひとりしなければならない仕事を仰せつかっています。ぶれても、なやんでもいいのかもしれません。ただ、受け容れなければならないことを受け容れる勇気を保持できるように、わたしたちの信仰を増し加えてもらうことを祈り求めたいと思うのです。