司祭 パウロ 北山和民
不平を言うファリサイ派の人や律法学者たちに向かって【ルカ15章1−10】
本日は律法学者の思い、「ねたみの渦巻く」場に語られたことを中心に思いを潜めたい。
そして15章11節以下の「待っている父のたとえ」の「怒って家に入ろうとしない兄(教会指導者)」に備えられる、偉大な招きをわたしたちも頂戴したいのです。
ルカは、現在語で言うジャーナリスト(わたしは「もの食う人々」の辺見庸や鎌田慧を連想)の一人に重なるような記述をします。
つまりルカの主張(神学)である「イエスの時が私たちの現実の時の流れに介入している(時の中心)」というのは、「この場で対話が要求されている」ということ。14章、15章では教訓としてではなく、神(他者)は「あなたといっしょに飯が食いたいのだよ。お前は誰と食卓【聖餐式】を囲む気なのだ?」と対話的に(福音は対話的)出会うのです。
「悔い改めるひとりの罪人(15:7)」とあるが、見つけられた1匹は懺悔もしてないし、またいつか迷子になるかもしれない。つまり、ルカは(聖職者の感覚では理解に苦しむけれど)、「悔い改め(シューブ・メタノイア)」を、「ただ神から見つけられる【他力的?】」というように理解(15:10も)しているのではないかと思うのです。そして悪人とレッテルを貼られてる人だけでなく、ひょっとしたら「妬み不平を言う聖職者たち」も大いなる喜びへと招かれている「ひとり」になれるかもしれない。「イエスはここにいる。もはや悔い改めの洗礼を考えている間はない。まあ座れ、とにかく一緒に飯食おう」という「終末の会食」を強調しているのかもしれない。そしてこれこそが、他力でも自力でも(どうでもいい)、「妬み」を「視座を弱いところに移す・メタノイア」に置き換えることではないかと思わせるのです。この気づきと喜びは、「先生」と呼ばれるわたしたちが経験するあらゆる「ねたみ」を「移す」勇気になると思います。
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