司祭 サムエル 門脇光禅
「イエスさまにしたがうこと」【ルカ14:25〜33】
人間は人生の計画を立てても結局自分の思い通りに行かないことのほうが多いものです。
イエスさまのお弟子さんたちにとりましても「イエスさまに従っていれば、偉くなれるに違いない。たぶん人々に尊敬されるだろう」そんな期待をもっていたのではないかと想像します。
お弟子たちの誤解していたのはまさにその点だったと思うのです。
だからこそイエスさまの十字架を簡単には認めるわけにはいきませんでした。
「そんなことあってはいけない」とイエスさまに忠告したのです。
でも現実に十字架につけられたイエスさまを見て、すっかり失望し、逃げてしまったお弟子さんたちでした。自分たちの期待していた救世主は、「こんな姿であるはずがない」と、勝手にイエスさまを定義していたのです。
ところが自分達の思い以上に神さまにはお考えがあったわけです。
まあ人間の考えというものは浅はかでその思いは不確かなものです。
そして神さまのご計画というはなかなか探り出せないものです。
「自分の思いというもの、願いはすべて打ち捨てなさい」実はそれが自分の十字架を背負うことの一つの意味かも知れません。
ゲツセマネで3人の弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)にそばにいて共につらい夜を過ごしてほしいと願ったイエスさまであったはずです。
死にそうなほど、血の汗を流すほど苦しんだイエスさまだったからです。
「できることならこの杯を取り除いてください」と祈ったイエスさまだったのです。
でも3人のお弟子はことの重大さを理解せずぐっすり眠っていたのです。
そんな情けない弟子たちの裏切りにもイエスさまは耐えられました。
弟子たちの裏切り、そして十字架の痛みや屈辱感を味わいます。
神さまに従えば楽ばかりでない、むしろ辛いことが多いということは、イエスさまご自身のご生涯が見事に語っています。
本日の使徒書を読みますと年老いたパウロがイエスさまの囚人として監禁されたように、イエスさまも神さまの囚人になっていたとあります。
でも、イエスさまやパウロは仕方なく囚人になったのではないのです。ふつう囚人は裁判にかけられ、仕方なく囚人になるのです。しかしイエスさまやパウロは違います。
イエスさまは神さまの囚人にパウロはイエスさまの囚人に自ら進んでなられました。
とても凡人にはまねはできないと考えてしまいがちなのですが、相手によっては違ってきます。
私たちは愛する家族や恋人、親友のためなら、自分を与え尽くそうと思うではないでしょうか。自分の持ち物すべてを捨てようとするのではないでしょうか。
愛すればこそ自分を捨てて、囚人にでもなれるのではないでしょうか。
もし人間の愛に対してでさえ、そのことができる私たちであるならば、絶対なる神さまに、それ以上のことが、どうしてできないのでしょうか。
本日の福音書では「その程度の愛なら、私に従うことをやめなさい。途中で裏切って逃げ出して、振り返って後悔するだけだから」とイエスさまに従おうとついてきた大勢の群集に語られたのではないでしょうか。
そして今私たちは、「本当にイエスさまを愛し、教会に来ているのか」と問われているような気もします。
自分の神さまに対する感謝と愛の深さの足りなさを考えさせられる本日の福音書です。
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