2016年8月28日      聖霊降臨後第15主日(C年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「招かれる者の心得は謙遜であること、招く者の心得は無償であること」
【ルカによる福音書14:1、7−14】

 イエス様は、ある安息日の日、ファリサイ派の議員の家に食事の席に招かれます。人々はイエス様の様子をうかがっていたとあります。神の愛を権威ある言葉で教え、多くの奇跡を行っていたイエス様は、話題の人、同席する人たちの注目の的でした。
 今週の福音で、イエス様は、二つのことを、一つは招待を受ける者の心得について、もう一つは、招待する者の心得について教えられています。
 ある招待客が自分から上座に座るのをご覧になった際、イエス様は、婚宴のたとえをお話になりました。その中で、イエス様は、招待を受けた者は、後から偉い人が来て席を譲る羽目になり、恥を受けることのないよう初めから末席に行き座るよう勧められます。その場合、招いた主人が後から来て自分を上席に招きます、そして、同席皆全員の前で面目を施すことになるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14:11)。主なる神は、(神と隣人に)傲慢な者に対しては、下の低い席に引き下げ、逆に謙遜な者には、上の高い席に引き上げられる、そのようにお報いになるお方である・・・
 イエス様は、このたとえで神さまがどのようなお方であるかをお示しになると同時に、神の国に招かれている者の心得を教えておられます。婚宴の主人とは、主なる神さまのこと、そして神さまにとって大切なのは、席に座る際の順番や場所ではなく、招かれた者の心なのです。つまり招かれた者は謙遜な心を求められているのです。
 次に、イエス様は、招待した者にお話になりました。私たちの日常では普通あり得ない話です。私たちが食事に招かれた時、返礼として招待するのがマナーだからです。しかし、イエス様は食卓に人を招く際は、友人、兄弟、金持ちを呼んではならない、むしろ、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人を招きなさいと勧められます。理由は、主なる神はお返しのできない人を招待する者に対して大いに報いてくださる神さまだからです。この話でイエス様は、神さまの無償の慈愛について語っておられます。主なる神さまこそ、お返しもできない位、貧しく、また弱い立場に置かれている人々を先ず招待することを望んでおられるお方なのです。
 ところで、イエス様が今週の福音で人々に教えられたことは、これまでの、またこの後の宣教の旅の途上、弟子たちに、また出会う人々と関わられる中で体現されたことでした、否、イエス様の歩みそのままが神さまのみ心を現す生き様であったと言えるでしょう。
 イエス様は神の子であるにも関わらず、誕生されて以来、ずっと謙遜な心で主なる神さまに、また隣人に仕えられました。特に、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人に寄り添い、憐れみをもって慰め、癒されました。そして最後、十字架の上ですべての人の罪を贖い、神の国に招き入れるため死なれたのです。神の御子であるのも関わらず、謙遜な心を尊ばれる父なる神さまに従順にこれ以上ない謙遜な姿を示して下さったのです。しかし、神さまはこの謙遜な御子に応え、3日後、御子を信じる者が永遠の命を得るために復活させてくださいました。そして、神さまは、御子の帰天の後、今なお聖霊によって導き、すべての人を神の国のしるしである教会に招き入れておられます。そして、いつか神の国の完成する際、招かれた者たちが与るべき命の食卓に招いておられます。この命の食卓こそ聖餐の食卓です。私たちは主からこの恵みに与るに当たり、新しい一週間、ますます謙遜に歩める者でありますようにと祈り求めましょう。