2016年8月21日      聖霊降臨後第14主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「狭い戸口から入るための福音」【ルカによる福音書13章22−30節】

 原爆記念日、終戦記念日を迎える8月、私たちはこのことを思い起こさなければいけません。第2次世界大戦のことです。ある資料によれば、6年間で日本人だけで、軍人一般人含めて250万人もの人が犠牲となりました。アジアや太平洋地域においては2000万人とも言われています。こんなに多くの人たちが、まるで虫けらのように、銃弾や爆弾、虐殺の犠牲となっていったのです。戦後に生まれで平和な時代にどっぷりと浸かっていますと、自分とは全然関係のない別世界の出来事のようにも思えてきますが、しかし71年前と言えばそう遠い昔ではありません。私どもの親の時代の出来事です。こんな間近な過去に、こんな恐ろしいことがこの日本でもあったんだと考えると決して別世界のことではないし人事ではない、またいつ起るかもしれない私たち人間の作り出す現実なんです。このことを風化させずに思い起こし続けることが大切だと思います。
 イエス様が十字架に付けられる前日にこんな出来事があったと福音書は記しています。イエスはゲッセマネの園で一晩中汗が滴り落ちるような緊張に満ちた状態で祈られた後、まだ暗闇が明け切らない早朝だったのでしょうか、そこに松明を手にした人たちがやってきました。手には剣や棒を持っています。一人が進み出て「先生、こんばんは」と言って口づけをしました。彼らに同行していた弟子の一人ユダとイエス様は緊張した表情をしていたのではないでしょうか。そして主はユダにこう言われた。「友よ、しようとしていることをするがよい!」。ユダの裏切りを主は見抜いておられたのです。
 このユダの口づけを合図に同行してきた者たちがイエス様を捕らえようとするのですが、その時、このことに驚いた弟子の一人ペトロが抵抗するために剣を抜いて一緒に来ていた大祭司の手下であるマルコスという人に切りかかって耳を切り落としてしまいます。しかし、それを見てイエス様は、ペトロを厳しくお叱りになって言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」。暴力によって人を押さえ込んでも、それは本当の勝ちではありません。むしろ、暴力はさらなる暴力を生み出し、結局は、お互いがその暴力の犠牲となっていく。この大切なことを主は教えられたんだと思います。
 今から61年前の1955年、アメリカ南部のアラバマ州のモントゴメリーという所で、一つの事件が起りました。ローザ・パークスさんという黒人の女性が、仕事を終え疲れきってバスの座席に座ったのです。ところがその頃、アメリカでは非常に厳しい人種差別がありました。その一つに、白人の席が満席になると黒人は自分たちの席を白人に譲り渡さなければいけないという決まりです。その決まりを破ったということでローザさんは警察に捕らえられてしまったのです。この逮捕に対して、多くの黒人たちが怒り抵抗しました。でも、暴力行為だけは絶対にしませんでした。デモ行進などで逮捕や差別の不当性を訴え、さらに「差別するバスには乗らない」と382日間に及ぶバスボイコット運動を起こしたのです。そして、これらの運動を指導したのは若き牧師マーティン・ルーサー・キング牧師でした。キング牧師は、この差別をなくす運動だけではなく、当時アメリカがやっていたベトナム戦争にも強く反対して世界の平和運動にも貢献しました。これらの運動が世界に認められて、1964年、ノーベル平和賞を受賞しています。
 キング牧師は「人を憎む心は、また人を憎む心を生み出す。人を憎む心には神様の愛の力が必要です」と、たとえ脅かされたり暴力を受けても決して暴力によっての解決をしようとはしませんでした。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」のみ言葉を真剣に受け止めていたからです。憎しみはまた新たな憎しみを生み出し暴力はまた新たな暴力を生み出す。戦争はまた新たな戦争を生み出す。暴力では本当の解決は得られません。しかし主はこのことも教えて下さっています。愛はまた新たな愛を生み出し、信頼はまた新たな信頼を生み出していく。憎しみや暴力の負の連鎖ではなく、愛と信頼のプラスの連鎖こそが私たち人類に本当の平和をもたらしてくれる。そして、その愛の命に生かされるために、信仰による神様との繋がりが不可欠であると言っています。
 さて、きょうの福音書の23節で「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いに対して、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とイエス様は言われます。この戸口の前に立つ人たちは誰かと言うと、福音書においては、当時のユダヤ人ということになります。彼らは自分たちこそ救いに近いと信じていました。けれども、神様から遣わされた旧約の預言者やイエス様に対して、その言われることに誠意をもって応えようとしませんでした。無視しあるいは敵意を抱く人たちがいました。そういう人たちにとって、イエス様が示された救いへの道は狭い戸口とならざるを得なかったのです。今も、平和な世界、安心して暮らせる社会を切望していながら、戦争や憎しみ合いが絶えません。この私たち人間の姿は狭い戸口から入ることができないでいる姿ではないでしょうか。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」この主のみ言葉を真剣に受け止めることができない人たちです。憎しみはまた新たな憎しみを生み出すことを頭では分かっていても、キング牧師のようにその道に立ち続けることができない人たちです。
 イエス様が「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。そのみ言葉を誠実に受け止めていきたいと私たちは思いますが、しかしそれは人間の力、努力だけではできない。そのことを主は見抜いておられるのです。そうでなくて主と共に、信仰の創始者でありまた完成者であるイエス・キリストを見つめながら共に歩む信仰を通して、私たちは神様の愛の命、平和の命に生かされることができる。このことによってこそ私たちは狭い戸口から入ることができる。このために主は私たちのもとに来られました。これこそが、聖書の伝える良き知らせ福音であります。
 すべての人が狭い戸口を見出し、そこから入って、戦争や憎しみが絶えないこの現実の世界にまことの平和が訪れるようにと主は教会をお造りになり、その交わりを導いてくださっています。私たちが毎週日曜日に礼拝を守り、御言葉に聞き、そして宣教するということにはこうした大きな目的があります。私たちの子ども、孫、さらにその先の子孫にも決して戦争を体験させたくない。愛と信頼に満ちた平和な世界を引き継いでいきたい、この切なる願いをもって、私たちも狭い戸口から入れるように主とともに歩んでいきたいのです。