2016年8月14日      聖霊降臨後第13主日(C年)

 

執事 モーセ 石垣 進

今のときを見きわめる【ルカ12:49−56】

 ルカ9章51節からのエルサレムの旅は、十字架の苦難への道です。イエス様は、この地上に来られたのは、火を投ずるために来られたと仰います。その火とは裁きのことです。そして、受けなければならない洗礼があると、人間に降り注ぐ火や苦しみをお受けにならなければならないのでした。イエス様にとって遣わされた方のみ心を行うことなのです。
 「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座にお座りになったのです。」(へブライ12:2)
 今からのち、すなわちイエス様が復活昇天ののち、弟子たちが家族から離れても耐えられる力を得ることができるようになるのです。
 イエス様のもたらす平和の福音には分裂が必要です。この分裂は社会の小単位の家族にまで及びます。「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと対立して別れる。」(53)このように罪に支配された平和から人を離れさせました。
 イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)と仰いました。神はわたしたち一人ひとりを召し出してくださっています。イエス様は各々自分の愛する人を離れさせ、小さくされたものを信仰共同体の方へ導いてくださいます。
 さらに続けて「イエスはまた群衆にも言われた。あなたがたは、雲が西に出るのをみるとすぐに『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる」(54節)
 私たちは、この世に生を受け、母の乳房を吸い、生きるための暖かい滋養をいただく、また哺乳瓶の先から栄養をいただいていて生かされてきました。
 そして、大自然のなかに放り出され、雨、風に吹かれて自然に触れてきました。
 自然現象はすべて神の支配にあり、わたしたちは雲や風の到来によって、雨が降る状況を学んできました。浜の漁師は早朝、雲と風の流れをみて、船を出すかどうかを判断した、と言われています。自然を相手に仕事をしていない、わたしたちにも雨が降る前の兆しが分かります。わたしたちの周りのすべのものから神様の支配なさる自然界の現象を経験的に認識することができます。
 イエス様は、「偽善者よ、どうして今のときを見分けることを知らないのか」と警告されました。今のときを見分けるとは、なんでしょうか。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして誰も主を見ることができません」(へブライ12:14)
 わたしたちにとって辛いときも嬉しいときも悲しいときも主がともにいてくだされる恵みを今一度想い起しましょう。わたしたちは、今のときを見きわめる正しい判断を求められているのではないでしょうか。