司祭 マタイ 古本靖久
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカによる福音書11章9節)
「お祈りってなあに?」、そう子どもに聞かれたときに、どう答えるでしょうか。「神さまにありがとうって言うことだよ」、「ごめんなさいって言おうね」、そう答えるかもしれません。しかし今日の場面では、「わたしたちにも祈りを教えてください」と言った弟子たちに、イエス様はこのように答えました。
「求めよ、探せ、門をたたけ」、この言葉からもわかるように、イエス様はわたしたちに、しきりに願うことを求められています。でもその「願い求める祈り」は、もしかしたらわたしたちはあまりよいものと思っていないのかもしれません。
そもそもわたしたちは、何のために祈るのでしょうか。「ありがとう」や「ごめんなさい」を神さまに言うため、それもあると思います。しかしそれだけでしょうか。
弟子たちは「わたしたちにも祈りを教えてください」とイエス様に求めました。それは祈らないと生きていくことのできない自分に気づいたからかもしれません。イエス様が祈る姿を見て、自分たちも祈る必要を心から感じたから、祈りを教えてほしいと願ったのかもしれません。
しかしわたしたちはどうでしょうか。切実な思いをもって、神さまの前に跪いているでしょうか。神さまを困らせてしまうほど、執拗に願い求めているでしょうか。機械的に、ただきれいな言葉だけを並べて祈ってしまってはいないでしょうか。
イエス様が教えてくださった祈りは、「父よ」という呼びかけから始まります。「父よ」と呼びかけるのは子どもたちです。周りにいる子どもたちをよく見てください。子どもたちが母親や父親の名前を叫ぶときは、困ったことがあったり、悲しいこと、助けてほしいことがあったときが多いのではないでしょうか。自分で何かをしたいけれども、どうしてもできない、そんなときだと思います。
わたしたちの祈りも、子どもたちと同じでよいのです。神さまに、「僕、一人じゃ無理だよ」と助けを求めるのです。神さまがいなければ何にもできない。神さまが一緒にいてくれなければ、すぐに倒れてしまう、そのことに気づいてください。すると素直に祈ることができるはずです。神さまに願い、求めるお祈りを。
教会で、またそれぞれの家庭で、わたしたちは祈ります。それは何故でしょうか。神さまが必要だからです。神さまに導いてもらわないと、道に迷ってしまうからです。だから求めるのです。探すのです。門をたたくのです。
神さまに執拗に願い求めましょう。祈りは必ず聞かれます。