司祭 マタイ 出口 創
聖公会における啓示の三源泉
「霊の導きに従って歩みなさい。…肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことが出来ないのです。…肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。…これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」ガラテヤの信徒への手紙5章16,17,19−23
「肉の業」と列挙されている数々も、「霊の結ぶ実」と列挙されている数々も、簡単に仕分けできるものではありません。一人の人の中にでも両者が混然と渦巻いていて、その時々に、顔を出してくるものです。ましてや、人が集まった場合には尚更です。「肉の業」と「霊の結ぶ実」のあらゆるものが、その時々に現れ、その共同体をカオスと化すでしょう。「物分かりのいい大人」が多ければ、それなりにその場は何とか治まるかもしれませんが、残念ながら「キリストの体」とされている教会共同体も例外ではなく、本来的には「肉の業」と「霊の結ぶ実」が混然としているのだと思います。
正義、親切、善意、など、本当は「霊の結ぶ実」であるはずのものが、敵意、争い、そねみ、怒り、不和、仲間争いなど「肉の業」を引き起こす現実を、私たちは嫌というほど知っています。
平たく言うと、「今、ここで私たちに示されている主なる神さまの御心」を、「啓示」と呼んでいます。プロテスタント諸教派の多くは聖書のみ言葉に、啓示を求めます。
一方で私たち聖公会は、@「聖書」のみ言葉、A「伝統」という2000年以上にわたる先人たちの信仰生活の歴史と経験、B「理性」という今を生きる私たち共同体の経験や解釈、この三つが揃って初めて「啓示」だと理解しています。「啓示の三源泉」と、何かの本に書かれていたのを読んだことがあります。啓示をどこに求めるかという点が、プロテスタント諸教派との大きな違いの一つです。
「聖書」、「伝統」、「理性」、この三つの道筋全てを通って来たものが初めて、「主なる神さまの御心が今私たちに示されている」と、私たち聖公会は信じているのです。
「聖書を一言一句過たずに暗記しています」という方、「信仰の先人たちの歴史や経験を学んでいます」という方、「今を生きる私たち共同体の経験を吟味して解釈し続けています」という方、どの方もとても素晴らしいと思います。
でも私たちは、個人としても、共同体としても、「肉の業」と「霊の結ぶ実」が混沌と渦巻いている事実を、まずは認めたいと思います。そしてその上で、「これが啓示だ」と早計に飛び付くことなく、聖公会人(アングリカン)として、「聖書」、「伝統」、「理性」全てにバランスよく、啓示を求め続けたいと思います。