2016年6月12日      聖霊降臨後第4主日(C年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

「ゆるしと愛」【ルカによる福音書第7章36〜50節】

 ファリサイ派は、当時のユダヤ社会の宗教的なエリート集団、律法学者による解釈を重要視し、それらを守ることに熱心だったグループです。そんなファリサイ派のシモンは、イエスさまの足に香油を塗る罪深い女性の行動が理解できず、嫌悪感を抱きます。
 イエスさまは、そんなシモンに向かって、借金の帳消しのたとえを用いて彼女の行為を受け入れた理由を説明されます。私たちが罪を犯したとき、それは神さまに対する負債だと考えますが、罪のゆるしとは、どうにも返すことができない借金を帳消しにしてもらうようなことだとイエスさまは教えられます。神さまが人の借金を帳消しにされる理由はただ一つ、「返す金がなかった」からです。それでも神さまは私たちを生かそうとして下さいます。
 ファリサイ派の考えでは、借金はきちんと返すべきで、罪はつぐなうべきもの、自分たちも罪を犯すけれど、それはつぐないの業によってちゃんと清算をしていると考え、多くの一般人は自分たちのようにつぐないの業を行っていないからダメなんだという目線でした。しかし、イエスさまの価値観は違います。負債を返すあてなどなかった女性は、イエスさまに希望をかけました。私たちは神さまに対する借金を返すことは到底できません。それでも神さまは、その罪人を拒否するどころか、その人を愛し・受け入れ・生きることができるようにして下さいます。
 イエスさまは涙で足をぬらす、女性の思いを受け止め、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言して下さいます。一方のシモンも熱心に祈り、律法を忠実に守り、神さまを愛していたはずですが、そのことだけに一生懸命で周りが見えなくなってしまい、自分とは違った神さまの愛し方をする女性を受け入れられなかったのではないでしょうか。神さまを自分だけのものとして捉えてしまい、自分の救いの為だけに祈ろうとすることは、すこし的外れな神さまの愛し方になってしまいます。もちろんそういう一面も大切ですが、他の人も同じように、神さまから愛され、ゆるされている存在であることを忘れがちです。私たちが隣人の救いの為に祈り働こうとするとき、神さまは大きな赦しを与えて下さいます。他者の為に祈るなんて高慢だと、ある人から言われたこともありますが、イエスさまは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛しなさい」、また「隣人を自分のように愛しなさい」という2つで一つの掟を私たちに与えられました。この掟はどちらも欠いてはならず、すべての律法にまさるもの、私たちがすべてに優先して守るべきことです。
 イエスさまは、私たちを神さまと人とを愛する者として立ち返らせ、「あなたの信仰・あなたの愛・あなたの人を大切にしようとする心があなたを救った。安心して平和のうちに行きなさい」と約束して下さいます。私たちは、「神さまを愛しているからこそ、ゆるされ」「神さまにゆるされているからこそ愛し」ます。一見単純なようで、実は奥深いゆるしの信仰に生かされていることを感謝しながら、多様な価値観を受け入れ合う者でありたいと願います。