2016年5月29日      聖霊降臨後第2主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

「謙虚な権威」

 イエスは滅多にローマの支配者たちに直接出会うことはありませんでした。普段、イエスはユダヤ人達に教えを説いたり、癒しを施すことに忙しく、町から町へと旅していました。政治的支配者よりも、どちらかと言うと、自分と同じ宗教者から、抵抗を受けました。細かい律法を人々に守らせることに一生懸命な人々や、清めることに執着する人々などです。このような人々は、これらを最優先するあまり、人々が本当は何を必要としているかに関心を向けようとしないのです。イエスは、逆に、人々が必要としているもの、病気の人、不自由な人、捨てられた人に関心を向けました。イエスは、律法よりも弱い者の求めるものを優先した結果、ユダヤの権力者に、目をつけられたのです。しかし、ローマの権力者達とはそれほど、ぶつからなかったのです。私達は、イエスの時代、イスラエルがローマの支配下にあったことを忘れがちです。ローマは、悪名高き帝国で、イスラエルもその支配下にあったのです。一般市民は、市場など町の中でも日常的にローマの支配者達に出会うことはあったでしょう。しかし、ローマの人々は、支配の邪魔にならない限り、大抵は一般市民を放っておきました。ただし、ひとたび自分たちの権力を誇示しようと判断すると、その態度は激変しました。従って、今日のルカによる福音書の中で、イエスがローマの支配者に出会い、その人が助けを求めている場面が出て来ますが、それは珍しいことです。そこには大切なメッセージがあります。
 ローマの百人隊長がユダヤ人以上に信仰が厚く、謙虚なのです。イエスが驚きます。イエスがすぐさま気付いたことに注目しましょう。まず、その百人隊長は自分の部下を気にかけ、自分の立場を低めて、ユダヤ人の長老にお願いして、その部下を癒してもらおうとしました。次に、その百人隊長は、イエスがその部下に直接合わなくても、直接触れなくても、癒すことが出来ると知っていたのです。また、イエスの権威を完全に認めることで、百人隊長は、自身の本当の謙虚さを示しているのです。百人隊長は、「私も権力者です」とは言いませんでした。立場からしたら、イエスを呼びつけて、部下を癒すことを命じることも出来たでしょう。しかし、彼が言ったのは「私も権威の下に置かれているものですが」という言葉です。この百人隊長は、人間がいかなる権威を持っていても、すべては天からのもの、父なる神からきたものに過ぎないということを知っていたのです。
 イエスは、百人隊長が他国の征服者であると知っていました。しかし、同時に、信仰、愛などは、出身地という様な無意味なもので左右されるものではないことも知っていました。謙虚さ、感受性、尊敬心でもって神様という唯一の権威の前にひれ伏す―イエスが自分の民に求めたことですが、期せずして、敵であるはずの人の中に見出したのです。