執事 セシリア 大岡左代子
― 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。―(使徒2:1−4)
イエスが天に上げられた後、弟子たちはエルサレムに入りました。使徒言行録1章には「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった」(1:13)、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)と記されています。彼らの心には、イエスが天に帰られる前に語られた言葉が心に深く刻まれていたはずです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(1:8)
あのイエスが本当に自分たちのもとからいなくなり、不安に苛まれていた彼らの希望は、イエスが約束された聖霊が降るのをひたすら待ち望むことでした。一同が一つになって集まっている、心をあわせて熱心に祈っていた、そのようなところにイエスの約束された聖霊が降ったのでした。聖霊降臨日が教会の始まりだと言われるのは「霊≠ェ語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」と世界各地への宣教の開始を語っているからだ、ということはよく言われますが、その大前提として「一同が一つになって集まっていた」「心を合わせて熱心に祈っていた」弟子たちの姿があったのです。これは、「心を合わせて祈りをささげる人々の集まり」が教会の原点であり、“聖霊”はそのようなところに降るのだ、ということをわたしたちに伝えてくれているのです。
現代社会に生きるわたしたちの教会は、社会の必要に応えるさまざまな役割や働きが必要だと考え、期待され、その必要に応えたいと願い、行動します。一方、そのような役割や働きに思いを注ぎつつも、どうしようもない現実に途方にくれてしまうこともあります。
しかし時代が変わり、教会の役割が変化しようとも、そのすべての働きの土台は、神さまのみ心が適うようにと、一同が心をあわせて熱心に、一つになって祈ることにある、ということを深く心に留めたいと思います。祈るだけでは何も変わらないのではないか?という声を聞くことがありますが、祈ることは思いを向けること、思いを向けることは行動の初めの一歩です。祈ることなしに教会の働きは存在せず、 聖霊の息吹きが吹き荒れることもありません。
― あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。― わたしたちの教会もこのイエスの言葉により頼み、心から神さまのみ心が適うようにと祈る共同体でありますように。