2016年5月8日      復活節第7主日(昇天後主日)(C年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「わたしたちはイエスさまに祈られている」【ヨハネ17:20−26】

 イエスさまの最後の祈りと呼ばれている箇所です。ゲッセマネの園に出掛ける前に弟子たちのために祈られました。その祈りは弟子たちに留まらず、主を信じたすべての人に向けた祈りへと進んでいきました。その主題は「一つになること」です。父と子が一つであるように信仰を持つものがすべて一つになることが「主の祈り」の大きなテーマとなりました。
 神さまのもとに一つになるということ、この一致とはどんな立場の人であっても、老いも若きもまったく関係なく、それを超えたところの神秘的な一致だと思います。このような一致によってこの世が父なる神によって主イエス・キリストが遣わされたことを知るようにと祈っておられるのです。つまり私たちはイエスさまによって祈られています。私たちが一方的に祈っているのではなく、私たちこそイエスさまによって祈られているのです。
 次週は聖霊降臨日です。イエスさまの霊の形、キリストの体が教会となっていることを記念し、特別な思いを持って礼拝をささげます。わたしたちの思いではなく、キリストの思いが教会を教会にしていくということを忘れてはならないと思います。その思いは私たちが礼拝につながることが救いとなることを改めて覚えます。主日礼拝にいくときの一つの想像をして見ましょう。
 高齢で寝たきりになった父親が「死ぬ前に話しておきたいことがある」と電話をしてきたとしたら、予定の優先順位を入れ替えてでも、都合をつけて駆けつけていくのではないでしょうか。
 このように、私たちは教会に招かれているのだと思います。この招きとは「自己都合を優先する」か、「共に祈る場に身を置こうとする」ことの二つに一つのことではないでしょうか。この招きの真剣さを現わしているのが、今日のイエスさまの別れの祈りです。今日の福音書は「私たちは祈られ、祈る場所へと招かれている。これが主の愛なのです」という福音を告げています。このイエスさまの思いを深く感じ、私たち自身の姿を、私たちの教会の姿を見つめ新たな思いをもって礼拝をおささげすることができますように導きを祈りたいと思います。