2016年3月13日      大斎節第5主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

強さは弱さこそが砕くことができるのです。【ルカによる福音書20章9−19】

 アメリカ大統領予備選において共和党ではトランプ氏の躍進が伝えられています。彼は失業におびえる中間層の敵は移民であると、メキシコとアメリカの間に「万里の長城」を作ることを主張しています。トランプ氏はアメリカ屈指の不動産王とのこと。先日、ローマ法王は「壁を造ろうとばかり考える人は、それがなんであれ、橋を架けようと考えない人は、キリスト教徒ではない」とコメントされたそうです。よその国はともかく憲法、原発、沖縄辺野古に対する私たちの国の指導者たちも世界からどのような目で見られているのでしょうか。また、その眼を自分自身に向けるとほころびを見せまいと壁を作っていることに気が付きます。
 小浜聖ルカ教会の十字架の上ではイエス様が手を広げておられます。そのイエス様をじっと見つめながら涙目で「イエス様、かわいそう」とつぶやいた幼稚園児がいました。無力で無残な姿、捨てられた者としか言いようがないみじめさをその子なりに感じたのでしょう。確かにイエス様はこの世界から捨てられたのでした。
 イエス様は言われました。「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。』その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされる。」。人間の世界では強敵を砕くためにはさらに強くて大きい力をぶつけます。しかし、イエス様は捨てられた者の弱さこそ、強さを砕くことができる唯一の力だと言っておられるのです。それが十字架が語りかける深い意味です。わたしたちが欲している強さ、それはイエス様という岩の上に落ちて砕かれなければ無限の競争と緊張と暴力の世界を創りだすでしょう。わたしたちがしがみついているプライド、わたしたちが自分を守ろうと必死に築いている壁、それもイエス様という岩に当たって砕かれなければ愛を知らず孤独と傲慢の罪に閉じ込められていることでしょう。
 石の上に落ちたり、石が上から降ってきたりと考えるだけで恐ろしいことです。しかし、イエス様と言う捨てられた隅の親石で砕かれるものは神様がひとりひとりに与えてくださった本当の命の芽を閉ざす固い殻なのではないでしょうか。十字架の上に落ちて砕かれる人のみが復活の踊りの輪の中に招き入れられるのです。