2016年2月21日      大斎節第2主日(C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

主は彼を外に出して「天を仰いで星を数えることができるなら…」、…アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章)

【アブラハムの宗教・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教】
 世界の三つのいわゆる「一神教」が等しく、「アブラハムの物語」をその原点に持っている不思議を黙想したい。言うまでもなく「テロリズム」や「パレスチナ問題」「難民問題」は、わたしたちキリスト教会の危機でもあるのです。
【そもそも聖書の記すアブラハムの信仰とは?】
 ヘブライ語の学者の釈義では「アブラムは主の内に在って確か(固く)なった」という記述になっていて、この「信仰」という言葉には「目的語」はついていないのです。「信仰」というと普通「マリア崇拝」とかその対象、目的語を信頼することだと思いますが、原典は上記のように目的語がないのです。「ヤハウェの中・自らが確かになる」これは「星空を見上げていない、旅もしていない」わたしたちは、黙想する価値があります。
 つまり、もし本当に「アブラハムを信仰の祖」とするなら、人間(教祖様)を拝んだり、人間(命)を破壊して領土を守るといった宗教的行為は(矛盾しますが)ある意味で信仰的ではないのかもしれません。

以上