司祭 サムエル 門脇光禅
「大斎節に入りました」
大斎節に入りました。イースターまでの40日間、イエスさまのご復活をお祝いする心の準備をする時期です。
「悔い改めて福音を信じなさい」という神さまの呼びかけにこたえて洗礼志願者は洗礼を受ける準備を整え、また教会の信徒も、初めて信仰をもったときの初心に戻って、回心を新たにし、新しいメンバーを迎え入れるのにふさわしい共同体になるように、努める時として古来からの美しい伝統のある季節です。
40日間とはあの出エジプトの間の40年間や、イエスさまが行った40日間の断食に由来しています。私たちは洗礼を受けてから、今日まで、教会生活をどのように過ごしてきたでしょうか。
「自分はイエスさまに守られてきました。」そのような実感をもてる人もいるでしょう。
でも「この世のことばかりに気を取られているうちに、あまりにもいろいろなことがあって、自分で一所懸命やっているうちに、神さまのことをつい忘れてしまった。」そんな人もいるかもしれません。人は確かに、誰でも幸福になりたいと願っているものです。
あえて不幸を望む人などいないとおもいます。心と体も健康でいたいし、仕事が充実して経済的に安定し、好きになった人と結婚したいものです。子どもたちに恵まれて子どもたちも心身ともに健康で、仲よく育って友人関係もすべてうまくいって欲しいと願います。
ところが現実はそうはいかないものです。なぜうまくいかないのでしょうか。ひとつに個人の中に、悪の心があって、どうしようもなく、現実の幸福を自ら破壊していくところがあるように思うのです。
家族が自分中心に動けば当然家族の中に溝が生まれてきます。家族が仲良くしても、家族の他の人のことを考えないで過ごせばやはり社会的に孤立していきます。ねたみが起きるかもしれません。
これから洗礼を受けキリスト者としての道を歩もうとする人たちも、すでにキリスト者として歩んでいる人にもいえるかもしれませんが常にイエスさまと共に、自分の人生を切り開いていくようお勧めしたいのです。
洗礼を受けたのに、何一ついいことがないどころかかえってむしろ悪くなったように思われることもあるかもしれません。そのような失望をもってしまうことがあるかもしれません。そのとき、今日の福音書に注目したいものです。
イエスさまはメシア救い主だから、パンを生じさせることも本当はできたのです。この世の権力と繁栄を手にすることもできました。
しかしそればかりしていたのならば、神さまはただの人間の便利屋になってしまいます。人間が神さまの主人になってしまいます。それはイエスさまが最も嫌ったことです。
ですからイエスさまでさえ、自分を捨てて、神さまから離れた自分の願いを持つのでなく、神さまに仕えることを、何より優先させたのでした。
そしてついには、他の、罪びとでしかない人間のために、自分を十字架で献げるということさえもできるようになったのです。
「どうして善良な人に不幸がふりかかるのだろう」そう思うことがあります。でも善良な人だからこそ、そのような働きを神さまから特別に選ばれて与えられたのではないかと思うわけです。
信仰を持ったということは私たちがたくさんの神の中から、イエス・キリストを選んだのではなく神さまがすでに選んでくださっていて、そして洗礼の場まで導いてくださったと思うのです。
だからどんな時も神さまにいつも感謝の気持ちを忘れないようにしたいものです。そしてどんな時にも神さまがともにいてくださると言うことをしっかり心と体に刻みつけようにしたいものです。