司祭 ヤコブ 岩田光正
「山上で栄光に輝いた主イエス」
今週の福音は、ルカによる福音書の所謂、「山上の変貌」の箇所です。
弟子たちにご自分の死と復活を予告された八日ほど後、イエス様は、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブ3人の弟子を連れて、祈るために山に登られました。
その昔、モーセがシナイ山で神様から十戒を授かった様に、イスラエルでは山は神様の顕現される場所でした。イエス様が山に登られたのもそのためです。祈っておられると次第に、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました」。因みに、モーセもシナイ山から下った時、顔の肌が光を放っていたと「出エジプト記」には記されています。
さて、弟子たちが見ると、何と2人の人がイエス様と語り合っているではありませんか?
その2人は、あのモーセとエリヤです。モーセは、出エジプトの指導者であり、創世記から申命記までの五書、旧約聖書の「律法」の部分を書いたと言い伝えられている人です。もう一人のエリヤは、旧約聖書を代表する「預言者」とされた人です。ということは、今、イエス様は旧約聖書(もちろん、当時は聖書)を代表する2人と語り合っているのです。ある意味、2人は旧約聖書全体を象徴しているとも言えます。
それでは、イエス様と2人は一体何を語り合っていたのでしょうか?それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後」についてでした。 祈っているイエス様のそばで弟子たちはひどく眠かったのですが、目の前には「栄光に輝くイエス」とモーセとエリヤが立っています。2人が離れ去ろうとした時、ペトロがイエス様に言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」自分でも何を言っているのか分からないとある様に、ペトロは目の前で繰り広げられている素晴らしい出来事に眠気も吹っ飛ぶくらい有頂天でした。
何故、ペトロは「仮小屋」を建てようと言ったのでしょうか?また、「仮小屋」とは何でしょぅか?彼は、仮小屋の中にいま目の前にいるモーセとエリヤ、そして栄光に輝くイエス様に入って頂きたいと願ったのです。何のためでしょうか?それは、この山上で今すぐ小屋を建てて3人に留まってもらうことで、この後も、主の栄光に輝く姿、そしてこの素晴らしい出来事を山の下にいる仲間や人々にも見てもらいたい…ペトロは瞬間的にそう思ったのではないでしょうか?
しかし、彼がこう言っていると、「雲が現れて彼らを覆い」ました。栄光に輝く3人の姿を雲が包み隠して行きました。旧約聖書の中で、雲は、神様が山で人と出会う時に現れ、その際、ご自分のお姿を人の目から隠す働きをしました。人は神様と出会う時、直接目にすることは許されないのです。だから、人は雲の間から神様の声を聞くのです。
神様は、ペトロのこの人間的な思いを決してお許しになりませんでした。包まれていく雲の中では神様の声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。この瞬間、雲が通り過ぎ、そこにはイエス様がお一人でおられます。
今週の福音の最後は、この山上での出来事について「弟子たちは沈黙を守り、当時だれにも話さなかった」と結ばれています。おそらく夢幻のような体験をした3人は、雲の中で神様の声を聞いてはっと理解したのだと思います。イエス様こそ主メシア(救い主)であると…ペトロは、山に登る前、イエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた時、思わず「神からのメシアです」と信仰を告白しました、神様はこの時、彼に自分の告白した信仰が真実であることを裏付け、また肯定してくださったのです。
同時に、この時、彼は気づいたことでしょう。本来、人はそれがたとえ弟子でさえも栄光に輝くお姿を直接目にすることは許されていないこと、ましてや、主の栄光を人間の思いで人間の手中に留めておくことなどできないのです。
栄光に輝くイエス様の姿を見て、神様の声を聞いた彼らは、イエス様こそ神様の子と信じました。しかし、彼らはこの時まだイエス様のことを正しく理解できませんでした。というのも、大切なことが抜け落ちていたのです、だから、栄光に輝く神様の子イエス様の栄光が一体何ゆえに栄光であるのか…そのことを理解できていなかったのです。今一度、イエスは、モーセとエリヤの2人と何について話し合っていたでしょうか?エルサレムで遂げようとしておられる最期のことでした。
ところで、この「最期」という言葉は原語のギリシア語では「エクソドス」で、「外に出る、脱出する」の意味があります。つまり、イエス様はエルサレムでこの「エクソドス」を遂げられたのです。この場合、「エクソドス」は十字架の死と3日後の復活、そして天に帰られた救いのみ業のことです。栄光に輝くイエス様の栄光、イエス様の栄光はこの「エクソドス」故に輝く栄光なのです。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。イエス様は、神様の子、選ばれた者だからこそこの「エスソドス」を成し遂げられたのです。この救いのみ業によって私たちを罪の束縛から解放し、神様の永遠の命に至る道に「エクソドス」(脱出)させてくださったのです。だから、イエス様のメシアとしての栄光は、私たち人が地上でイメージするようなこの世の支配者や王様ではありません。また、栄光に輝くメシア(救い主)は、決して私たちが目にすることは許されていないのです。当然、私たちの思いで作るような「仮小屋」に留めることなど神様は許されるはずないのです。
そこで、神様は何故、山上のイエス様にモーセとエリヤの2人を出現させられたのか分かるような気がします。それは、律法と預言者から成る(旧約)聖書の一貫したテーマ、罪の贖いと命の救いを成就させようという神様の意思であったのです。そして、山上の出来事はこの神様の意思の表れであったのだと思います。
最後、3人の弟子たちは、山上で特別の体験をしました。それは、後に主の証し人となるためでした。私たちは、この出来事が余りにも不可思議であり、普通、現実味を持って語ることができません。でも、沈黙していたこの弟子たちが主の「エクソドス」の後、沈黙を破り、証していった出来事はたしかな「真実」です。そして、私たちは2千年以上たった今でもこの証しを教会の中で、福音として聴くことが許されているのです。