2016年1月31日      顕現後第4主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。」
【ルカによる福音書4章21−32節】

 一人の青年が、自分を取り巻く人間関係でとっても悩んでいたことがあって相談に乗ったことがあります。あるとき彼はひとつのみ言葉に出会いました。ヨハネによる福音書8章32節のみ言葉です。「真理はあなたを自由にする」。これはどういう場面でのみ言葉かといいますと、ご自分を信じたユダヤ人たちに、ある時イエス様はこのように言われたのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。それを聞いた彼らはこう言いました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」彼らは、自分たちは「アブラハムの子孫である」ということに捕らわれてもっと大切なことが見えていなかったようです。
 自分以外の誰彼によってというよりも、むしろ自分の内なる問題として、私たちは神様と離れたところで様々な人間関係や情報や人間的な思いに捕らわれて、思い悩み自由を失っていることが何と多いことでしょうか。そしてこのことから解放されて自由になるということは、そうした人間的な思い煩いを超えたところの高きもの、深きものを知り、そこに心を向けることによって得られるということがあると思います。「真理はあなたたちを自由にする」このみ言葉に出会った青年はこのことを体験したのではないでしょうか。ある神学者もこのように言っています。日常的な束縛からの解放は「ただ、人の心だけを見て、恐れたり、喜んだり、悲しんだり、嘆いたりするのではなくて、これらすべてを生かし、支えておられる神の心を見ることによるのである」。
 ラジオのトーク番組で、ある精神科医の先生がこんなことを言っていました。「今は、あまりにも情報が多すぎて、あまりにも興味・関心あるものが多すぎて、聞くということができなくなってきている。子どもたちの間にもこの傾向が顕著に現れてきている・・・・」。いくら言っても親や先生の言うことを聞かない子供たち。実は聞いているようで聞いていない。だから分かっていない。だから行動できない。私たち大人もそうではないでしょうか。あまりに情報や興味あることが多すぎて、それらに捕らわれたり振り回されて大切なことが見えない。神様の方を向かなくなってしまってしまう。これ確かにあるように思います。そして、ルカによる福音書4章21以下にはそうした人間の姿が描かれています。イエス様がお育ちになった郷里の人たちは、イエス様の子どもの頃からのたくさんの情報を持っていました。そうした日常的なこと、人間的なことばかりに捕らわれて、イエス様の言葉を聞けない、聞いても受け入れられないでいます。その彼らの中で主のみ業が現されることはありませんでした。30節にあるように、主は、その人々の間を通り抜けて去って行かれるのです。
 今日の福音書最初の21節でこう言っておられますね。「聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」。21節のみ言葉です。イエス様がみ言葉を語られることによって神様の御心が世に現されます。そしてそのみ言葉を聞き、受け止めて受け入れた時にそれは実現するということでありましょう。聞いて、受け入れるということがどんなに重要なことであるかということだと思います。パウロもローマの信徒への手紙10章17節でこのように言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。