2016年1月17日      顕現後第2主日(C年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

足りないところを補ってくださるイエス様

 ヨハネによる福音書第2章1節からは、ガリラヤのカナで行われた婚礼の中で、イエス様が水をぶどう酒に変えたという奇跡が記されています。宴会も盛り上がって酔いも回ったころにぶどう酒が無くなったため、それに気づいた母マリアがイエス様に助けを求めたことで、イエス様によって水がぶどう酒に変えられました。その量はとてつもなく多い量であり、しかもそれまでのぶどう酒よりもおいしいものでした。この奇跡によって、その婚宴はさらに喜びに満たされたものになったのではないでしょうか。

 ところで、最初に母マリアがイエス様に『ぶどう酒がなくなりました』と知らせた時、イエス様は『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』と、母の願いを拒否されました。しかし、母マリアは召し使いたちに『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と、イエス様が必ず何とかしてくれると確信していました。そしてその通り、イエス様は母の信頼に応える奇跡を起こされたのでした。しかし、母マリアがイエス様から拒否された時、もし諦めたり、自分たちの力で何とかしようともがいたりしていたら、イエス様の奇跡は起こらなかったのではないでしょうか。母マリアのイエス様への信頼、イエス様は必ずこの場を救ってくださる方、との確信がイエス様の奇跡を導いたのではなかったかと思います。

 さて、この「カナの婚礼」で行われたイエス様の奇跡から、私は私たちの足りないところを補ってくださるイエス様を感じます。私たちは神様からそれぞれにふさわしい賜物を与えられています。性格も能力・才能も興味・関心もすべて神様から与えられたものであり、それも皆一人ひとり違います。たとえ一卵生双生児であろうと、全く同じ性格をしているわけでもなく、能力や興味・関心も必ず同じというわけでもありません。また、同じ両親から生まれ、同じ環境の下で育ったきょうだいでも、全く正反対の性格だったり、全く違う興味・関心を持っていたり、ということもあります。それは、それぞれ自分の持っているものを出し合うことによって、お互いに持っていないところを補い合いながら、共に助け合って生きていくようにとの神様のみ心であるからなのではないでしょうか。
 ですから、自分に与えられた賜物をよく知って、それを十分に用いることが大切だと思います。もちろんさらに上を目指して努力することは大事なことだとは思いますが、それ以上のことを望むあまり、自分の力でもっとできるはずだと思い上がったり、反対に自分はダメな人間だと思ったりすることは、かえって神様の恵みを忘れているということになるのではないかと思います。もし私たちに足りないところがあれば、そしてイエス様が必要だと思ってくだされば、十分すぎるほどの量で水を前よりもおいしいぶどう酒に変えてくださったように、私たちにもさらに十分すぎるほど良い賜物を与えてくださるのではないでしょうか。

 本日の使徒書の日課であるコリントの信徒への手紙T第12章4節から6節で、パウロは次のように言っています。『賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です』。私はこの箇所が大好きです。私たちがそれぞれ持っている賜物は自分の力だけで獲得したものではなく、私たちが行っているさまざまな務めやいろいろな働きも決して自分の力だけで行っているのではありません。いろいろな賜物も、いろいろな務めや働きもすべて神様がそれぞれにふさわしいものとして与えられ、イエス様がそれらを十分に生かすことができるようにと祝福されていることを覚えたいと思います。