執事 セシリア 大岡左代子
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」【マコ10:47】
イエスが盲人バルティマイを癒す物語は、どの福音書においてもイエスのエルサレム入城の直前に記されています。そして、これがエルサレム城外でのイエスの癒しの行為の締めくくりです。このあと、イエスは十字架への道を進んでいかれることになります。
イエスとバルティマイが出会ったのは、イエスがエリコからエルサレムへ向かおうとする直前でした。道端に座っていたバルティマイは、近づいてくる足音や人の声の様子から、その中にイエスがいるということを知ったのでしょう。突然、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めます。周囲の人は驚いて彼を黙らせようと叱りつけますが、ますます「わたしを憐れんでください」と叫び、イエスの足を止めることができました。イエスに呼ばれたバルティマイは、「自分の衣服を脱ぎ捨て、躍り上がりながら」イエスのもとへ行くのです。彼の願いは明確でした。「見えるようになること」です。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」とのイエスの言葉によって、バルティマイは見えるようになります。そしてイエスに従ったのでした。バルティマイは、喜び躍り上がりながら従って行ったのではないでしょうか。「行きなさい」とイエスに言われたにもかかわらず、喜び勇んでイエスに従う決心をしたその姿は、「悲しみのうちに去って行った」金持ちの青年や、すべてを捨ててイエスに従ったにもかかわらず、誰が一番偉いかとか、誰がイエスの右に左に、と論じ合う弟子たちとは対照的でした。イエスは、バルティマイが人々の静止を振りきってまで「わたしを憐れんでください」と叫び続けた姿、その一途な姿に彼の「信仰」を見たのでした。この後、おそらくバルティマイはイエスの十字架上での出来事と遭遇したでしょう。せっかく見えるようになった目で見たものは、イエスの死の出来事でした。バルティマイの心は揺れたに違いありません。しかし、「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったイエスの憐れみを、彼は決して忘れはしなかった。きっと、イエスによってそれまでの苦しみから解放された喜びを伝え続けたのではないかと思います。
共観福音書において特に「憐れんでください」と命令法で用いられる時には、神の憐れみが人間の悲惨さの領域に入り込んでくることを示唆します。なりふり構わず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶバルティマイの姿は、まさに信仰の原点、祈りの原点です。