司祭 クレメント 大岡 創
「僕として仕える」
本日の福音書(マルコ10章35〜45節)は、ひたすらに自分の使命を果たそうと道を進まれるイエスさまの姿と裏腹に、その真意をうけとれず、ちぐはぐな対応をする弟子たちの姿が描かれています。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)と、神の国について語られているにもかかわらず、「栄光をお受けになる時にはあなたの右に、左に」(10:37)と自分の地位が挙げられることを望みます。それは、イエスさまがいわれた「神の国」の実現とはかけ離れたものでありました。「栄光をお受けになるとき・・」と主に願いでたのは、イエスさまが王座に就いたとき、他の弟子たちを出し抜いて自分たちが最高のポストに就こうとした野心の現われでもありました。この言い争いを聞いて「人の子は仕えられるためにではなく、仕えるために(中略)来たのである」とはっきりと弟子たちに宣言されたというのです。これがイエスさまの生き方を伝える最も有名なみ言葉の一つです。
さらに「あなた(がた)は・・わたしの飲む杯を飲めるか。わたしの受ける(同じ)洗礼を受けることができるか」(10:38)と問われています。これは「人と出会うこと」とは「人とどれ程関わっているかではなく、それができないでいる自分をも知りつつ、どうしたら共に歩むことができるだろうか」と一緒に考えられる人になってほしい、というのがイエスさまの願いではなかったでしょうか。さらに言えば「イエスと共に歩む覚悟があるか」を問われたのです。そこには、神さまへの畏れを持ち続けることの意味が込められていると私は思います。
私たちが選ばれているのは「教会」という何か特別な位置に置かれ、神さまに守られているからではありません。神さまに招かれていることを感謝するとともに、「あなたはどこに立つのですか」と絶えず、問われる位置に立っていることこそが、「選ばれていること」の意味であります。謙虚な思いが、いつの間にか、優越感に変わりやすい脆さを帯びているわたしたちです。その「弱さ」を知りつつ、誠実にみ言葉に向き合い、ひたすらイエスさまに従っていけるように共に祈り続けることが教会の大切な働きです。
弟子たちは辛抱や我慢すればいつかは輝かしい栄光の座に就くことができると、信じ込んでいました。しかしイエスさまの求める「栄光」はまったく違っていました。それは十字架の出来事を通してしか知ることのできない「栄光」であり、「僕としての仕える姿」その「仕える僕の姿」にこそ「栄光」があるのだということです。わたしたちの教会が、そして私たちひとり一人が、イエスさまの言われる「僕」であり続けられますように。