司祭 サムエル 奥 晋一郎
イエスさまからの愛を受け止め、従っていく【マルコ10:17−27】
今回は11日の福音書に選ばれているマルコ10章17節−27節「金持ちの男」というタイトルがついている箇所の22節までを見てみましょう。
この物語はイエスさまと弟子たち一行がユダヤ南部のエルサレムに向かう途中、ある人がイエスさまの前に走り寄ってひざまずいて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。「永遠の命」、それは当時のユダヤでは、長寿、死に対する勝利を表すものとされていました。彼はそれを受け継ぐ、自分もそのように生きたいと願い、イエスさまに質問したのでした。
その後、イエスさまとその人がやり取りをします。その人は『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という当時の律法で大切にされていた掟を守っていました。ですから、彼は自分こそ、永遠の命を受け継ぐにふさわしいと思っていました。
そこで、イエスさまは彼を見つめ、慈しんで言います「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。この言葉を聞いて、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。彼はお金持ちだったからです。
今日はイエスさまがお金持ちの男に対して「慈しんで言われた」の「慈しんで」という言葉に注目します。この「慈しんで」は、新約聖書の元の言葉、ギリシア語で直訳すると「愛して」となります。ですからイエスさまは彼を厳しく批判したのではなく、彼を愛して、彼を思いやって、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのでした。
しかし、お金持ちの男はお金および律法を忠実に守っているという自らの立派な行いや考えに執着し、それよりも大切な神様に従うこと、神様のみ心のままに生きることが救いの道、永遠の命に至る道であることを受け止めることができませんでした。
このお金持ちの男のように多額のお金を持っていなくとも、私たちも自らの行いや考えのみを優先してしまう時、自己中心的に生きようとする時があるのではないでしょうか。そんな状態に陥ってしまう私たちに対して、イエスさまはお金持ちの男と同じように、私たちにも愛をもって、慈しんで、「私に従いなさい」と言ってくださっています。イエスさまは愛をもって、慈しんで私たちに、お金や自らの立派な行いや考えよりも、もっと大切なこと、貧しい人に施すこと、すなわち分かち合うこと、助け合うことが永遠の命に至る道、神様の救いにあずかる道であること、そのためにイエスさまに従うことが大切であることを伝えてくださっています。これらのことをイエスさまは私たちに対して、十字架を通して、聖書のみ言葉を通して、礼拝を通して、何度でも言ってくださっています。
だからこそ私たちはこれからも日曜日に行われる礼拝に出席し、イエスさまからの愛、イエスさまから慈しんで「わたしに従いなさい」という言葉を何度でも受け止めることができればと思います。