2015年9月20日      聖霊降臨後第17主日(B年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

「最も小さな存在と共に」【マルコによる福音書9章30〜37節】

 先週読まれた聖書の箇所では、12人の弟子のひとりペトロの信仰告白と、それを受けて、初めてのイエスさまの受難予告(イエス様が十字架に掛けられ、殺され、三日目によみがえるということを予告するお話し)がありました。
 今週の箇所には第2回目の受難予告が出てきます。マルコによる福音書では、この後にもう一回、全部で3回の受難予告があります。「3」と言うのは完全数の一つですので3回とは十分に予告されたという意味にも受け取れますし、イエス様は何度も弟子たちにこの話をしたという風にも取れます。そして、そのたびに弟子たちは的外れな答えを返し、イエス様の受難と復活の意味を十分に理解することができなかったようです。それでもイエス様は何度もこのことを語られたのです。
 弟子たちが道々「誰が一番偉いか」という議論をしていたのをイエス様がご覧になって「途中で、何を議論していたのか?」と問われます。弟子たちは、その瞬間に自分たちの浅はかさに気づいたのでしょうか、黙ってしまいます。「途中」とは、エルサレムに向かう途中なのです。弟子たちの議論は、イエス様が十字架に向かって歩まれている途中、人々のために自分の命を投げ出そうとして歩んでいる途中でするべきことだったのでしょうか。
 イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。
 私たちの教会で、礼拝の際に行列をしながら入堂したり、退堂するとき、主教様がいつも行列の一番最後を歩きます。これは、この聖句のことを表しているのではないかと思います。一番前を進んでいては、後ろの様子が分かりません。自分中心になってしまいます。前で旗を振ってみんなを導くということも大切ですが、すべての人の後ろを歩むことで、何が起こっても、そのことに対応して駆けつけ、援助できる場所こそが、「仕える者」の位置なのではないでしょうか。
 次に、イエス様は子どもを真ん中に立たせて「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われました。子どもとは、その当時もっとも役に立たないもの、小さな者として見られていました。だから、その子どもを真ん中にたたせ、この小さい存在をこそ受け入れなければ(仕えなければ)ならないと言われたのです。
 「最も小さな存在を受け入れなければ、教会は教会といえない。」ということでしょう。
 イエス様と共に歩む私たちの教会の「(この世の旅の)途中」の議論が、この世の論理や価値観にひきずられているようであれば、「何を議論していたのか?」と問われたときに、私たちもまた、弟子たちと同じように沈黙せざるを得なくなるでしょう。