2015年9月6日      聖霊降臨後第15主日(B年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」(イザヤ35:5)

 イザヤ書のこの箇所は、バビロン捕囚の民として長年敵国の地に暮らしていた人びとに語られた預言の言葉です。彼らは、自分たちが一番自分らしく生きていける故郷エルサレムに帰還できる日が来ることを待ちわびていました。しかし、何十年も敵国での抑圧と苦難の日々が続き、絶望して元気がなくなってきた人も多かったのでしょう。その人びとに向けて預言者は語ります。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そうして、自分が帰るべき場所に帰れる時が来る、という喜びの知らせを伝えています。
 主の栄光が現れるその時に、今まで閉じられていた目、耳、口が開かれて、自由にコミュニケーションがとれるようになる、というのです。目、耳、口による意思疎通ができないと、自分の心の思いを伝えることが難しいですし、そのことによってさまざまな苦しみ、悲しみ、断絶も生まれます。しかし、神が来られた時には、これまでの苦しみから解放されて、心が自由になり、喜びに満たされて、躍り上がって歌うことになる。そして、砂漠に命の水が湧き出るような喜びとともに、聖なる道が開かれて帰るべきところへ帰ることができる日が来る、と告げられているのです。
 これは紀元前600年頃の古代の預言の言葉ですが、今を生きる私たちにも語られているのではないでしょうか。さまざまな理由で嘆き悲しみ、苦しんでいる人びとが一番辛いと感じていることは、本当に心を通わせたい相手とうまくコミュニケーションがとれない、また心を通わせる相手自体がいない、そしてそのために自分が自分らしくいられる居場所がない、帰るべきところが見いだせないことなのです。それは、とても深い悩みですし、絶望しそうになりながら、何とか忍耐して生活し、希望の光を見いだしたいともがいているのです。
 それは、いわば荒れ地や砂漠のような心の状態です。
 そこに神はやって来られるのです。マルコによる福音書7章では、イエスが「天を仰いで深く息をつき」、耳の聞こえない人の耳を「エッファタ(開け)と言って、癒してくださった奇跡が記されています。深く息をつくのは、その人に対する深い共感を象徴しています。そこから心の扉は開かれるのです。
 閉じている扉を自分で開いていくには、かなりの勇気とエネルギーが必要です。けれど、私たちが帰るべき道を示してくださることを祈り求める時に、神様がその扉を開いてくださって、豊かな恵みと導きを与えてくださることを信じて歩んでいきましょう。