司祭 ヨハネ 黒田 裕
誰のために、何のために【マコ7:1−8、14−15、21−23】
介護士をしているわたしの友人はとてもプロ意識が強いのですが、そんな彼の口癖は「誰のために、何のために」です。仕事のうえでこれがないと目的を見失い不満や甘えばかりが出てくると言います。なるほど、と思いつつ自分をふりかえると、自分だって忙しさのなかで「誰のために、何のために」を忘れていることがあることに気づかされます。イエスさまがファリサイ派や律法学者たちに問いかけたのも、いったいその戒律の遵守は誰のため、何のためなのか、だったのではないでしょうか。
もちろん、そう問えば彼らは「主のために!」と胸を張って答えたことでしょう。しかし、その実、戒律の遵守をたてに同胞や隣人をないがしろにしていたのでした。そこでイエスさまが語られたのが15節です。省略されている19節ではこの意味がもっと明らかとなります。それは、外部から人の体に入ってくるものは、そのひとの心の中にではなく腹の中に入って、厠(かわや)へと出て行くだけだ、むしろひとの心のなかから出てくるものがひとをけがすのではないか、というのです。ここでもう一度「悪徳表」(21−22節)を見てみたいと思います。これらを一言でいえば自己中心性です。昔の人の言い伝え(3節)も、元々は神中心から出てきた約束だったのではないでしょうか。さらにいえば、この神中心性は、神の民が共に生きるためにはどうしたらいいかということと密接に関係していたはずです。つまり、「神さまのために、共に生きるために」行われていた。しかし、今に至っては、それが抜け落ち、自己中心的に、そして、共同性を破壊する方向でむしろ作用している―。そのことをイエスさまは批判されていたのではないでしょうか。
私たちの礼拝もまた、もし自己中心的に行われるのであれば、まじないのような迷信的な儀式で終わってしまうでしょう。しかし神中心的に、つまり「神さまのために、民が共に生きるために」行われるときに、的を射ることになるのではないでしょうか。私たちの聖餐式は、感謝と賛美のまつりです。そこでは、神さまへ感謝と賛美がささげられます。私たちの心のなかに(21−22節のような)悪い思いがあったとしても、それは感謝と賛美のことばに変えられていくのです。それは、私たちの人生に感謝と賛美という選択が与えられているということでもあります。その選択を選び取ることのなかに、わたしたちの神さまへの応答があるということを今日皆さまと共に確認したいと思います。