2015年8月23日      聖霊降臨後第13主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

「わたしを食べる者もわたしによって生きる」【ヨハネによる福音書6章60−66】

 イエス様の弟子は当初百人近くもいたそうです。ところが、最終的に12人になり、やがてユダが裏切り、ペトロもイエス様を否み、十字架まで付き添ったのはヨハネ一人だけというありさまでした。最初の離反が起こったのはイエス様が「わたしは天から命のパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われたことによります。弟子の多くはこの言葉の意味を理解できず躓いたのでした。人間はどんな場面でもどちらかを選ぶ自由を神様から与えられています。たとえイエス様を信じないということも神さまが人間に認められたことなのです。今日読まれた福音書ではそのところの様子が生々しく記されています。「このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」と。イエス様は12人に「あなたがたも離れていきたいか」と問われました。それに対してペトロは「主よ、わたしたちは誰の所へ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であるとわたしたちは信じ、また知っています。」と言い切ったのでした。その道を選ぶかまた別の道を選ぶか、わたしたちはその最終的な決断の権利を持っています。そして、わたしたちはどの道を選ぶのか岐路に立たされたとき、たとえどうなるかわからないけれどどちらかの道を選びそしてできることなら歩き続けたいのです。今日はそのことに焦点をあててご一緒に学びましょう。

 大江健三郎さんの「恢復する家族」は障害を背負って生まれてきた大江さんのご長男光さんの人生と家族のことに触れている素晴らしいエッセイです。(御存じのとおり、光さんは障害を持ちながらも作曲家として美しい、魂からほとばしり出るような音楽を紡ぎだされている方)。この本の中で大江さんは癌の末期で苦しみの淵に突き落とされたお兄さんの枕頭でウイリアム・ブレイクの「セルの書」という詩集のことに思いをはせた記述があります。永遠に続く生命の谷に天使のような種族が住んでいるのですが、その一族「セル」という娘はそんな世界に疑問を抱いて花や雲や虫と問答をします。ついにセルは土くれの声を聞いて天上の汚れない世界から地上の人間の世界へといたる門をくぐりぬけてしまうのでした。ところがこの現世の涙と悲しみを見たセルは怯えて、鋭い叫び声をあげて天上の永遠の世界へと逃げ帰ってしまうのです。その天上の永遠の世界の挿絵が実に美しいのだそうです。そこで、大江さんは「自分も含めてこの地上にある者たち、つまりわたしたちは嘆きの声と悲しみの声の響く国に病を負い、老いに崩れる肉体を与えられて生まれてきたものだ。」と打ちひしがれてしまいました。しかし、ここから大江さんの鋭い感性が立ち上がります。「自分らはこの地上へとあえて降りることを決意した、そして天上の国に叫び声をあげて逃げ戻ることをしなかったセルではないか、と。今、こうして生きているわたしたちは忘れているが、こちらの世界に降りて来るに際して自分の魂はある決意をしたのだ。自分の魂はこの悲しみと憂いに満ちた世界を見た時に、『仕方がない、やろう』といってこの地上に生れ出る決意をした。そうであるならば、どんなに辛くても『仕方がない、やろう』と自分を励まして次に来るものに立ち向かうほかは無いではないか。」と大江さんは綴るのです。

 弟子たちはイエス様に「あなたがたも離れて生きたいのか」と問われました。弟子たちはあえて十字架の道を歩いていきますと決断したのです。そして、弟子たちは躓きを繰り返しながら最後には迫害の内に命を落としていきました。愚かな弟子たちでしたが困難に直面するたびに十字架につけられたイエス様が肩を貸してくださったから「仕方がない、やろう」と立ちあがり、一歩踏み出すことができたのではないでしょうか。
 永遠の命とはセルの一族が住む汚れない天上のどこかにあるのでしょうか。セルが逃げ帰ったこの苦しみに満ちた地上で生きざるを得ないわたしたちが永遠の命を得るようにとご自身を天から降ってきたパンとしてお与えになられたのがイエス様です。永遠の命とは「仕方がない、やろう」と言う再び立ち上がる気持ちと深く関係しているような気がしてなりません。価値もないわたしたちにご自身を与え続けられるイエス様の深い愛に心を打たれます。