2015年8月16日      聖霊降臨後第12主日(B年)

 

司祭 バルナバ 小林 聡

「わたしに食らいつきなさい 〜平和の器となりなさい〜」【ヨハネ6:53―59】

 イエスさまが差し出すパン、それは命のパンだといわれます。さらにそれはパンから肉という表現になります。これはまさに自分の生き様そのもののことを言っておられ、十字架上で人々のために裂かれたあの肉体のことを言われています。イエスさまがこのような表現をとらざるを得なかったのは、イエスさまが裂かれた肉体の意味を今こそ直接的な方法で伝える時だったからなのです。
それは神さまの思いがイエスさまの生き様の内にあるということを今味わえと言わざるを得ない切迫感があったからでした。
 イエスさまの死後から一番遠い時期、死後約60年〜70年後に書かれたヨハネ福音書だからこそ、その状況の中でより現実的に迫らなければならなかったのです。観念ではなく現実のこととしてイエスさまは自分を裂き与えたということを。神さまの思いをより現実的に語る必要があったのです。イエスさまの生身に食らいつき、その生き様に徹底してならえ、ヨハネによる福音書はそう宣言します。
 イエスさまは生きたパンであり、神さまの思いであります。そのイエスさまを食らわなければ人は生きることが出来ないといいます。それは徹底して神さまの生き様にならえということ。中途半端ではなく、徹底して倣いなさいということです。
 教会には聖餐式という儀式が伝えられています。イエスさまの血と肉を食らう儀式。聖餐式は、「わたしに食らいつきなさい」といわれたイエスさまの言葉に信頼し、行動したことからイエスさまにつながってきた信仰の営みです。はじめはイエスさまが行い、そして弟子たちがイエスさまに倣って続けて行なってきました。わたしは、聖餐式が始まったきっかけは、イエスさまが、なかなか自分に従えない弟子たちを見て、「わたしを食べなさい、わたしに食らいつきなさい」と呼びかけられたのだと思います。心が飢え渇いている時、どうぞ食べなさい、とイエスさまの方から差し出してくださったのだと思うのです。弟子たちはそのことに戸惑いながらも安心と慰めを受けたのでした。「わたしを食らいなさい」そう言って自分を差し出されたのです。聖餐式はただパンとぶどう酒をイエスさまの体と血として受けるだけの式ではなくイエスさまが裂き与えられたように、わたしたちを差し出し、私たちも裂き与える行為です。
 今年は戦後70年目にあたります。国会では安全保障関連法案が審議され、福井では9月5日に自衛隊市中パレードが開催予定です。為政者や力を持つ人々の間では、武器が平和をもたらすと考えられて来たのでしょうか。平和はどのように生まれ、どのような状態を平和と呼ぶのでしょうか。聖書は、イエス・キリストこそが平和であると語っています。それは、食事の時にパンが割き与えられるように、ご自身を差し出されるイエスこそが、平和であると告げられているのです。武器や威圧するような力ではありません。イエスさまは、武器や威圧するような力が猛威を振るう中で、あえてパンを割く姿に平和の姿を込められたのでした。平和はパンを割く姿の中にあります。私たちがパンを割く時、キリストの平和を頂きます。これは、教会が、この世界に伝えるようにと、主イエスさまから教えられたメッセージなのです。