2015年8月9日      聖霊降臨後第11主日(B年)

 

司祭 サムエル 小林宏治

「わたしは命のパンである。」【ヨハネによる福音書第6章37節から51節】

 今日のお話は、イエス様が五千人以上の人に食べ物を与えたキセキの出来事につながりのあるお話です。人々はイエス様のキセキを目にしました。そのキセキを目にした人々に、イエス様は「わたしは命のパンである」と教えられました。
 人はパンを食べなければ、食物を食べなければ、生きてはいけません。イエス様は、ただのパンではなく、命のパンであると言われました。しかし、そのことに、人々はつまずきました。
 今日の旧約聖書(申命記第8章1節から10節)に大切なことが示されています。その一部を下記に記します。
 「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」
 この申命記の内容は、モーセというリーダーがエジプトにいるイスラエルの民を約束の地に導く中で、与えられたマナという食べ物に関して語られています。人々は旅の途中で、神様やモーセに文句を言い、食べ物がなく飢え死にしそうだと訴えました。神様はそれを聞かれ、マナを与えられました。しかし、神様の意図は、飢えをしのぐためだけにマナを与えたのではなく、主の口から出るすべての言葉によって、主を信じ、主に従い、また主を畏れることにあったというのです。
 イエス様のなさったキセキを見た人々も、昔のマナを食べた人々も同じようにつまずきました。人々は目先の利益、食べ物によって満腹するという目的のために、神様に訴えます。けれども、それが叶うと、本当に大切なものを忘れてしまうのです。
 イエス様の周りにいた人々は、イエス様をヨセフの息子に過ぎないとつぶやきました。イエス様への不信の表れです。神様から遣わされた者は、この世界のただ中に生き、神様からのメッセージを人々に伝え続けられました。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」とイエス様は言われます。
 イエス様は、「わたしは命のパンである。」と言われました。このパンを食べることを求められます。それは、イエス様を信じること、イエス様に聞き従うこと、そして、神様のみ言葉に聞き従うことです。ゆえに、わたしたちは神様と共に生きる者となるのです。