司祭 パウロ 北山和民
「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます」…(ヨハネ福音書6章9)
イエスは言われた「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ福音書6章35)
B年での「マルコ福音書」が今週〜再来週は「ヨハネ6章」になっている。おそらく「パンの出来事」の重要さの故だろうと思われる。ヨハネ第6章は「ひとりの少年が差し出した5つのパンと2匹の魚からパンの出来事が起こった(1−15)」から始まり、湖の上を歩く神としてのイエス(16−20)、命のパンとしてのイエス(ヨハネには「パン裂き・聖餐式文」記述はない)(22−39)、そして52−59節の「ユダヤ人との論争」60−71節では、教会の分裂・危機と「聖餐式」が関係あるかのような記述。という構造で(他の章と比べ異常に長い)ひとつの章としたのはなぜだろう。
先週「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっている教会(マルコ6章52)」と聞いたわたしたちは、今日再び、ヨハネ福音書成立環境が「教会の危機」であることに思いを致し、この国と教会の現実に向けて、聖餐式とは何か、説教者は如何に語るべきかを黙想しなければならない。
つまり今週から(ヨハネ6章)の御言葉が教える、わたしたちの教会・教区の危機とは一体何なのか、を黙想するのです。そしてヨハネ6章の最初、5つのパンと2匹の魚、まさにささやかな「日毎の糧」が祝福され、命のパンとしてのイエスさまが臨在する教会のイメージに戻されるのです。この少年は、きっと家に帰って今日起こったことを家族に熱く語ったと想像します。こんな団欒が今、私たちの教会、信徒生活の中に生まれているでしょうか?
この「小ささ」こそが祝福されるという気づきの説教、そして物語が生まれ、家に帰り一人から一人に分かち合われる(5千人が喜ぶ)、そんな聖餐式を取り戻すことが今私たちの教会に求められていると思います。
この説教をする者、今この福音を聞いているあなたが、いつか「この少年」になるのです。 以上