司祭 ヤコブ 岩田光正
「小さくても祝福して用いてくださる主の恵み」
派遣されていた使徒たちが戻って来ると早速イエス様に宣教の結果(悪霊を追い出したり、病気を癒したり…)を残らず報告します。「残らず」という言葉には、あんなことも、こんなことも…と沢山の素晴らしい目に見える成果があったのでしょう。自信ありげにイエス様にアピールする姿が想像できます。そんな彼らにイエス様は「人里離れた所で休むように」勧めます。さて、イエス様はこの言葉をこれまでの弟子たちの働きを労い、休養を取りなさいの意味で言われたのでしょうか?しかし、乗り込んだイエス様一行を見つけた大勢の群衆が救いを求めて町々から集まって来ていて、先回りし湖岸で待っています。そのような群衆を見てイエス様は、「飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れまれた」とあります。「深く憐れむ」とはただ可愛そうに思うという様なレベルではありません。ギリシア語でこの言葉は「腸がねじれるほどに悲しい」を表わし、イエス様だけに用いられている特別な言葉です。これ程までに深い憐れみでもって主は、教え始められました。
そのうち、時間もたち、弟子たちは心配になってきます。というのもここは人里離れた場所、里や村のように食べ物を買うお店もありません。しかも目の前には男だけで5000人以上の人々が集まっています。夜になれば、人々は空腹で一夜を過ごすことになります。そこで、弟子たちはイエス様に助言します。「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」弟子たちの判断はとても現実的な判断です。しかし、イエス様の返事は意外なものでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちは思ったはずです。「それは無理なこと」。そこで目前の群衆にパンを配った場合のお金を計算します。二百デナリオン(1デナリオン=労働者1日の日当に相当)のお金が必要です。「先生は一体何考えているの?こんな大金持ち合わせていないこと分かっているはずなのに」。イエス様は彼らに「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と言われました。イエス様は弟子たちに今自分たちがどれだけのものを持っているかを訊ねられます。彼らが差し出したのは「5つのパンと2匹の魚」。これが全てでした。彼らは思ったはずです。「こんなに少なくてはどうしょうもない」。しかし、この後、この「5つのパンと2匹の魚」を用いて、イエス様は男だけで5000人の全ての人々を満腹される奇跡を行なわれるのです。
さて、私たちはイエス様のこの奇跡をどのように受け取ったら良いのでしょうか?
悪霊を追い出したり、病人を直したりする奇跡ならまだあり得ないことはない、しかし、「5つのパンと2匹の魚」が5000人以上の人を満腹させるくらい増えることなど理解できないからです。そこでこの奇跡物語を次のように解釈する人がいます。この時、全ての人が満腹したのは、イエス様がみんなで分け合うという教えにみんなが感動した時の心の状態を言っているのであって、実際にパンが増えたのではないというのです。しかし、福音記者マルコは、道徳的なお話をこの福音で伝えようとしているのでしょうか?そうではないと思います。真相は分かりませんが、マルコはこの時の出来事を主の行なわれたある奇跡の出来事として福音に記しているからです。
そもそもイエス様は弟子たちの助言を斥け、どうして人里離れた所に留まり、弟子たちに準備をするように仰ったのでしょうか?弟子の言う様に、群衆をお店のある里や村に去らせれば食べ物は十分確保できます、それなのにどうして人里離れた所に主は留まろうとされたのでしょうか?それは最初にイエス様が弟子たちに人里離れた所で休む様に告げられたことと関係があるように思います。イエス様でさえたくさんのみ業を終えられた後、静かな所に退かれ一人父なる神様に向き合い、語り合い、祈られました。そして、ご自分と神様との関係を再確認する時間を持ちました。この時、イエス様は、弟子たちにも今このような静かな時間が必要だと思われたのです。それは宣教が順調な時ほどそれが神様からの恵みであることを見失ってしまうからです。このことをイエス様は心配されたのです。
彼らはこれまで自分たちが行うことができた多くの成功を体験した後、自分に自信を抱いていました。しかし、今、自分たちではどうしても解決できない現実に置かれています。そんな彼らは、自分たちの力がこんなにも小さなものであり、無力であることを思い知ります。そして、そんな小さかった自分を認めたくないために、目の前に主がおられることも忘れ、現実的な計算に逃避、またそれに頼って群衆を解散させることを提案したのではないでしょうか?イエス様はそんな彼らのこともご存知でした。イエス様が敢えて自分たちで食事を備えるように言われたのは彼らの自信を喪失させるためではありません。イエス様は、弟子たちを諭されたのです。そして、気づかせようとされたのです。
だからこの後もイエス様は、決して弟子たちを飛ばして奇跡を行なうことはなさいませんでした。だから自分たちで準備することを求められたのです。そして、結果、彼らが差し出した全ての持ち物、それは彼らの目には「小さな」ものですが、イエス様は退けることなくそのまま受け取り、祝福されました。その上で、弟子たちの手を通して群衆に配らせたのです。
彼らは気づきました。実は、今まで自分たちが体験したこと、つまり今回イエス様が目の前で行なわれた奇跡はこれまで彼らが体験した奇跡、つまり悪霊を追い出したり、病気の人を癒した奇跡と同じだったこと、そして知ることができました…決して自分たちの中に何か特別な力があって人々を救えたのではない、主が宣教の器として自分たちを用いてくださっていた、だからこそあのような働きをすることができたのです。イエス様は、人里離れた所に留まらせました。また、人里離れた所で休めと仰いました。このイエス様の勧めは実際には実現しませんでした、しかしイエス様はこの5つのパンと2匹の魚の奇跡によって弟子たちにその意味を示されたのです。自分たちがどれだけ弱くて小さな者であるにも関わらず、そのままご用の器として用いてくださる主の豊かな恵み…彼らはこの恵みに感謝の思いを新たにできたのです。
最後、私たち教会もまた一人ひとりの信仰生活においても弟子たちと同じ様に順調な時もあります、しかしそのような時ほどイエス様は私たちに静かな所で休めと諭されておられるのかもしれません。それは私たちがあたかも自分の力で何事も進んでいるように錯覚しない様に、そして私たちが神様の恵みによって生かされていることを見失わないためです。反対に、困難な状況にある時にこそ主は私たちに気づかせようと働きかけてくださっています。たとえ「小さく」ても、そのささげものをそのままで受け取り、祝福し限りなく豊かに祝福して用いてくださる主の恵みに私たちは生かされているということをです。
主に感謝。