2015年7月5日      聖霊降臨後第6主日(B年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

イエス様につまずく理由

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった。(マルコによる福音書6:4−5)

 わたしたちが自分のありのままの姿をいちばん出せるところ、特に弱い自分をさらけ出すことができるところ、それは家族ではないでしょうか。なぜなら、家族は理屈抜きの愛に溢れ、理屈抜きの信頼関係にあるからだと思います。
 それでは、ナザレの家族で過ごされたイエス様はどのような子どもだったのでしょうか。唯一ナザレでのイエス様の様子が記されているルカによる福音書には「両親に仕えてお暮しになった」「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。大工である父ヨセフの仕事を手伝い、両親と共に聖書を読み、学び、この世的に言ういわゆる「良い子」「賢い子」だったのではなかったでしょうか。12歳の時、エルサレム神殿で神の子としての片鱗を見せる出来事(ルカ2:46−49)はありましたが、約30歳で神様の仕事を始められるまでは、マリアとヨセフの子どもとして、またヤコブたちの兄弟として、わたしたちと同じように一人のイエスという名前を持った人としてナザレの家庭で過ごされていました。誕生にまつわる神様からの不思議な計らいを体験したマリアとヨセフは、イエス様に対して特別な思いは持っていたかもしれませんが、それでも一人の自分たちの子どもとして、家族の一員として、親の・家族の愛情を持って、他の家庭と同じように普通に家庭生活を築いてこられたと思います。
 このように普通の家族の一員として家族と一緒に暮らしていたイエス様の状況を見聞きし、そのイエス様の姿をよく知っているナザレの人たちにとって、イエス様の会堂における神様の話しや教え、また多くの奇跡を行われているという現状に対して、どのように理解し納得することができるでしょうか。大工をしていたイエス様がどうしてこのような神様の知恵を授かることができたのか、なぜ奇跡を行うことができたのか、驚き不思議に思い、イエス様につまずいたのでした。わたしたちも子ども時代をよく知っている人が大人になってから全く変わってしまったとしたら、とても驚き、一体何があったのか、と思うのではないでしょうか。
 イエス様は故郷であるナザレではごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかったのです。多分、イエス様は故郷のナザレでも多くの神様の救いの業を示されたかったのだと思います。しかし、行わなかったのではなく、行うことがおできにならなかったのです。神様の救いの業は神様側からの一方的な恵みです。それは誰にでも与えられるものです。しかし、それが恵みとして、奇跡として現れるためには受け取る側の信仰が必要です。ナザレの人たちはイエス様が語っている神様の話や教えの内容、また多くの奇跡そのものに心に留めることが大切であったにもかかわらず、それを語っているイエス様、奇跡を行っているイエス様の方に心が囚われ、自分たちがよく知っている人間のイエス様がなぜ?という思いしか持つことができなかったのではないでしょうか。神の子としてのイエス様の業より、小さい時からよく知っている人間としてのイエス様を見ていたのです。それではせっかくの神様の恵み・救いを見逃してしまうことになってしまいます。
 わたしたちはイエス様が神の子であることを知っています。しかし、それでも不信仰になってしまうこともあります。そんな時はせっかくの神様の恵み・救いを見逃してしまいます。もったいないと思います。神様は一方的にわたしたちを愛してくださり、恵みを・救いを与えたいと思ってくださっています。わたしたちはその神様の愛に応え、神様を信じてイエス様と共に歩んでいきたいと思います。