2015年5月31日      三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(B年)

 

執事 アントニオ 出口 崇

「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」

 ニコデモという人も、ユダヤ教の宗教指導者という立場上、人目を忍んで夜にイエス様に会いに来ます。「ラビ(先生)」と感動を持ってイエス様に語りかけますが、イエス様はことごとく否定されます。このやり取りは、見ていて「ちぐはくなやりとり」という印象を持ってしまいます。

 イエス様との最初の出会いは、あまり良い印象のものではありませんでしたし、社会的な立場からイエス様への信仰に踏み切れませんでした。
 しかし、「付かず離れず」といいましょうか、弟子たちとは違った独特の距離でイエス様に従っていきます。
 ヨハネ福音書では、ニコデモはこの後2度登場します。
 1度目はユダヤ人指導者たちの間で、イエス様を強引に逮捕して、殺そうとする動きのある中で、「まず、本人から事情を聞くことが律法ではないか」と、イエス様の不法逮捕を阻止しようとします。
 そしてもう1度は、十字架にかけられ殺されたイエス様を、アリマタヤ出身のヨセフと共に墓に埋葬します。

 イエス様に従うということは、今までの罪ある古い自分に死んで、新しく生まれるということ。洗礼の考え方の一つでもありますが、実際にそのように生きているかと言われると、「肉の部分」自分自身の思いは捨てきれず、神様に全てを委ねる「霊による」生き方はなかなか出来ません。
 ニコデモというのは、なかなか変わることの出来ない、新たに生まれることの出来ない、弱さを抱えたままの人間の代表として描かれているようです。
 しかしイエス様はニコデモの思いを否定こそすれ、見捨てることはありませんでした。
 なかなか変われない私たちのために自らが十字架に架かり、復活してくださいました。
 そして穴の開いた両手を私たちに差し伸べてくださっています。