2015年5月17日      復活節第7主日(昇天後主日)(B年)

 

司祭 ヨハネ 荒木太一

自分自身をささげます。【ヨハネ17.19】

 こう祈ってご自分をささげられるイエスさまの前に、わたしは問われる気がします。「おまえは何のために、誰のために、自分をささげてきたのか? 一体全体おまえは、自分をささげる生き方をしてきたのか?
 一人一人に生きる現場があります。勤め人なら、この会社やこの事業に。夫婦なら、生涯を共に生きると決めたこの人に。母親父親なら、愛する子供のために、自分をささげてきたことでしょう。聖職者なら、按手式で自分をささげる誓いがあります。
 「この世で他の必要や欲を満たすこともできた。普通の価値観なら不幸や損失や間違いなのかもしれない。でもわたしは、このために、この人のために自分をささげて生きてきた。」人生の終わりにそう思える人は祝福された人だと思います。その最中は苦しくとも、自分をささげた時間と相手との関係は後に、復活の時に、必ず輝き出します。
 そんな祝福された人生をわたしたちが生きるために、イエスさまはまず自分をささげられました。ささげることは聖別すること。イエスさまは尊いご自分の命を、特別にわたしたちのために費やそうと、父に向かって感謝し聖別し、そして惜しげも無くわたしたちに与えてくださいました。十字架と復活によってわたしたちは「神に自分をささげる」力強い者となるよりさきに、「神がご自分の命をささげた」憐れまれた者となったのです。
 まず神がご自分をささげてくださった。わたしたちのために。だからわたしたちも喜んでささげる者となるのです。なれるのです。主と共になら。