司祭 エッサイ 矢萩新一
「父と子と聖霊のみ名によって」【ヨハネによる福音書第14章15節−21】
今日のヨハネによる福音書の短い箇所の中で、「父」「子」「聖霊」という三位一体の神さまについて知ることが出来ます。子なるイエスさまを愛することは、すなわち父なる神さまを愛すること、真理の霊が共にいるということは、父と子と共にいるということです。神さまの豊かすぎる働きを先人達が何とか表現しようとして生まれたのが、「三位一体」という考え方です。
今日の少し前の箇所でイエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」という、一番大切な「愛の掟」を教えられました。父なる神さまを愛するように、自分を愛するように隣人を愛しなさいという掟です。そして、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今からあなたがたは父を見る。いや既に父を見ている(14:7)」と言われました。イエスさまの愛を知る者は、神さまの愛を知っていることになりますし、神さまの様々なみ業は、真理の霊・聖霊の働きであることを知っていることになります。
私たちは不思議な出来事や奇跡的な出来事を思うとき、神さまの業だとか、聖霊の働きだとか、イエスさまが生きて働いておられるという言い方したりします。それはどれも同じ意味だということです。この全てのことはイエスさまの「愛の掟」が根幹となっています。神さまを愛し、隣人を愛することによって、私たちは神さまの業を見、聖霊の働きを感じ、復活のイエスさまに出会っていきます。
私たちが洗礼を受けて一番うれしかったことは何でしょうか?神さまを身近に感じられるようになったこと?洗礼名がもらえて生まれ変わったこと?もしかすると、逆にしんどいことの方が多かったかも知れないという方もおられるでしょうか?クリスチャンなのにこんな考えをしてもいいだろうか、こんなことをしてもいいのだろうか?毎週礼拝に出ないと天国に行けないのだろうか?実は何にも変わってないような気がするけど…と、洗礼を受けてしまうと、今までには考えなかったいろんなことを考え出します。
私たちはなぜ洗礼を受けたのでしょうか?いくら考えても、悩んでも一度受けた洗礼は取り消すことができません。一生付いてきます。一生付いてくるというと、少し重荷に感じてしまいますが、イエスさまがいつも一緒にいて下さる、いつも聖霊の導きがあるということです。長い人生の歩みは、決してうれしいことや楽しいことばかりではありません。逆にしんどいことや思い悩みの多い方が現実かも知れません。一人で抱え込んでいると、とてもしんどくて耐えきれない思いに至ってしまうかも知れません。だからこそ、洗礼を受ける必要があったのだと思います。一緒に歩んでくださるイエスさまと共に、聖霊の導きに身をゆだねて生きようと心に誓うのが洗礼です。洗礼を授けられる時、司祭は「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉を唱えながら頭に水を注ぎます。これは、目に見えない神さまの恵みを、目に見えるしるしとして、私たちの心と目に刻むという意味が込められています。
今日の福音書でも、イエスさまは字架にかかられる前、弟子たちに向かって「真理の霊があなた方と共におり、これからもあなた方の内にいる。世はもうわたしを見なくなるが、わたしが生きているので、あなた方も生きることになる。」と宣言して下さっています。自分はやがて見えなくなるけれども、必ず一緒にいる、聖霊の導きによって、父のもとへと歩ませて下さるという約束でした。しかし、イエスさまが約束して下さったから、洗礼を受けたからといって、私たちは何もしなくてもいいということではありません。
今日の福音書の最後で、イエスさまは、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と言われます。私たちは他者=隣人との関わり無くしては生きていけない人間社会に存在しています。その中で、神さまに知られている者・イエスさまに愛されている者・真理の霊が自分たちの内に働いていることを信じ抜くことから始めたいと思います。そのことが「愛の掟」を受け入れ、それを守る者とされていくことです。私たちがしんどくて、神さまの助けはどこにあるのだろうかと悩むとき、実は一番近くにいて下さって、その重荷を担いで下さっています。父と子と聖霊の神さまがいつもそばにいて下さることを信じ、人を愛する、人を大切にする人生を歩ませて下さいと祈り、求めていきたいと思います。