2015年3月8日      大斎節第3主日(B年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

どうぞお入りください【ヨハネによる福音書2:13〜22】

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:15、16)

 近くの神社でお祭りがありました。松明をかかげ、急な、しかも不規則な石段を掛け声をかけて降りてくる勇壮なお祭りです。「上り子」と呼ばれる人たちは、祭りの朝、海で禊をし、身を清めます。
 この清めという行為は、今も日本人の生活の中に息づいているように思います。たとえば葬儀の時の清め塩や厄年の厄払いなどです。穢れを塩で清める、災厄を祓うという清めの思想は、わたしたち日本人の生活の根底にあるのではないかと思います。

 ヨハネによる福音書第2章13〜22節は、イエスの宮清めと言われる箇所です。本来、神殿は祈りの場です。しかし、イエスの時代、神殿はいけにえの動物を売買したり、両替商が利ざやを稼ぐ商売の場でもありました。そこで、イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われました。「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

 イエスのこの行為が、宮清めと言われる所以はどこにあるのでしょうか。イエスは言われました、「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と。商売の道具を運び出すことによって、神殿を本来の祈りの場所に復帰することを目指したイエス。イエスにとって清めとは、穢れを塩で清め、災厄を祓うという意味以上に、神の働く場所を整えるということではなかったかと思います。

 ヨハネの黙示録第3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあります。わたしたちは神の場所を常に用意しているでしょうか。いつでも戸を開けて、どうぞお入りくださいと神を招き入れる用意が出来ているでしょうか。