司祭 ヨハネ 黒田 裕
ノアの箱舟とイエス【創9:8−17、ペトT3:18−22、マルコ1:9−13】
本日の使徒書にあるように洗礼の原イメージは、ノアの箱舟の洪水物語です。こうして新約と旧約とが聖書日課において連結しています。一方、箱舟物語の幾つかの点が福音書に共鳴しているように思えます。箱舟が「大地から離れて」は「水のなかから上がると」(マコ1:10)に、つまり浸って上がる動きがそれです。呪縛(洪水物語では“地”が象徴)からの離陸、人間の弱さや限界という低みからの浮上を思わせます。さらに天から聞こえた声(1:11)に、あの虹で表された契約が更新されたのを見ます。それは、もう「滅ぼすことはない」に連続性をもち、それを越えて神さまの思いが「愛」として宣言されているのです。また「地」が象徴する人間を捕縛する力であるサタンとの、のっぴきならない関係を生きる人間状況が表されています。そのなかでイエスさまが見たのは、ご自分と天使と野獣との共存です(13節の「が」は原典では順接です)。そこにはイザヤ11:6−7にあるような「平和の王」というモチーフがあります。つまりこの世では相容れないものが共存するという驚くべきヴィジョンがこの背後には隠されているのです。それはまた主の食卓という神の国のヴィジョンの先取りでもあります。だとすれば、荒野でイエスさまが見たのは、主の食卓が指し示す神の国の実現に仕えていくのだという展望だったのではないでしょうか。またここにいうサタンの誘惑とは人間を呪縛する力であり、当時の状況から考えれば、権力を握る王への誘惑だったでしょう。
箱舟が大地から離れたのは呪縛からの離脱を、そして箱舟自体は清いものとケガれたもの(福音書にある「荒野」では野獣との共生)が共在する神の国を遠く指さしています。その動きは、イエスさまの受洗の動きにつながり、水から上がってすぐになされた神さまの宣言は、あの虹の契約の更新です。それは“滅ぼさない”においては連続性を持ち、「わたしの愛する子」において新しさを持ちます。そして、荒野の誘惑で既に神の国のヴィジョンが暗示されています。それは誘惑に抗して、何に仕え従うのかという課題です。
いま中東で起こっていることは、第一次大戦後、欧米諸国(各々キリスト教国でもあります)によって恣意的に引かれた国境線に種々の部族が押し込められたことが遠因とも指摘されています。ある意味で「地」の呪縛が作用しているのを感じます。また、「対テロ戦争」という一つのイデオロギーに国民共々妄信的に自らを没入させていくという日本の現状に、厄介なある呪縛を感じると共に強い憂慮をおぼえざるをえません。
人間を誘惑し捕捉する力が働く世界の中で「平和の王」そして、野獣と共に、に先取りされている、主の食卓という神の国のイメージ、そこに従い、仕えるのがわたしたちの使命なのだ、ということ、そしてそれは、あの神さまの宣言、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなうもの」という宣言に支えられているのだということを共に確認したいと思います。