2015年2月15日      大斎節前主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

「栄光は苦難の向こうに」【マルコによる福音書9章2−9】

今起こっていること、経験していることの意味を後になってから知ることがある。そのとき、昔の経験はこれから歩む道を照らす光となる。
 ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人はイエス様に従って高い山に登った。山は人間の感性を研ぎ澄ます。そこで彼らが目撃した出来事はイエス様の姿が変わり服は真っ白に輝きを放つなか、現れた偉大な預言者モーセとエリヤと語り合っている光景だった。エリヤはこの時代から800年以上も前、生きたまま天にあげられイスラエルの危急存亡のときには助けに来てくれると言い伝えられた偉大な預言者。エジプトから苦難の末にイスラエルを乳と蜜の流れる地に導いたモーセに至っては1300年以上も前の偉人だ。神の超越的な栄光が山の上に現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声を3人は聞いた。この出来事に弟子たちはただただ圧倒されていた。そして弟子たちはこれからイエス様と一緒に進む道の向こうには輝く栄光が待っていることを確信し魂にこの出来事を刻んだ。
 一行は山を下っていく。目的地はエルサレム。やがて群衆の歓呼の声に迎えられてイエス様がエルサレム神殿に入られた。そこでイエス様は金儲けと自己保身に堕した神殿に巣食う既成権力を真正面から批判された。境内で商売をしている鳩売りや両替人どもに鞭を振り回して破壊したとき群衆は熱狂し喝采を浴びせたものだ。今こそ神様が世に送られたメシア(救い主)によってユダヤ教の真髄が回復され、支配者ローマ帝国からの解放の時が来たと弟子たちは確信した。あの山で見た栄光がこのエルサレムで再現される。震えるような期待が彼らの胸にあふれたはずだ。しかし、事態は予想だにしなかった結末を迎える。栄光を受けるはずのイエス様は神殿権力に対して抵抗どころか一切の口を開かず、神を冒涜したと言う罪と汚名を被せられ、ローマ兵の暴行になすがまま、十字架にくぎ打たれて無残にも殺されてしまった。弟子たちはショックと失意のどん底に突き落とされ、彼らが望んだ神の栄光は消え失せてしまった。
 しかし、墓に葬られて三日後、復活されたイエス様は恐れ戸惑う弟子たちの真ん中に立たれ、平安あれと宣言される。2回目の大ショックが弟子たちを襲った。ご復活されたイエス様はまばゆいばかりの栄光に輝いていた。そのときペトロはあの山で見たことの本当の意味とあの光景を、そして復活の時までと口止めされたイエス様の真意を初めて悟った。驚くべき奇跡と宣教の成功の積み重ねの上にではなく、十字架の苦しみと死という暗闇をとおらなければイエス様の栄光はなかったのだと。イエス様のご復活の出来事は人類の歴史の大転換となった。神様の業を伝えるため弟子たちは苦難と絶望の暗闇を幾度となく経験しなければならなかった。しかし、弟子たちは苦難の向こうにあの山で見たイエス様の栄光があることをひたすら信じてきた。今日の福音書をとおして、ペトロたちに示された高い山での輝く栄光をイエス様はわたしたちにも垣間見せてくださっている。たとえ暗闇がまわりをつつんでも、この栄光のイメージと「これはわたしの愛する子、これに聞け」との雲の中からの神の声をわたしたちも魂に刻もう。