2015年1月25日      顕現後第3主日(B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(マルコ福音書1章14−20)

 「ヨハネが捕らえられ、殺された」は「風雲急を告げる」という意味で、のっぴきならない危機は「今ここにある」。
 イエスの存在と活動全体、究極には「十字架事件」を、マルコ福音書は「神が動き出した時(カイロス)」であると言う。「時(カイロス)」「悔い改め(メタノイア)」を私たち教会はどう説明するだろうか? マルコ福音書は、その時代の危機をナザレ人イエスの振る舞いと死によって示されてしまって以後、「もはや見て見ぬ振りや宗教的陶酔は許されない、神へ根本的に従う(メタノイア)しか道はない!」とエルサレムのヘレニストたちに迫るのです。 同じ感性が「人間尊厳システムが危うい」現代の社会に「顧客の創造・イノベーション」を起こすのですが、私たちのキリスト教会にも大いに求められていると思います。
 「この生きづらさは何なのだ」と真面目に生きようとしている多くの若い人たちに、「神の国・神の支配」をどう説明し、どんな希望のメッセージを教会は発することができるだろうか? 英国の教育学者ケン・ロビンソンは「神に感謝、感動を伴って発見(対話)する自分の才能こそエレメントである」と言い、「自分の価値(エレメント)を知らずに人生を送る人が多い。『工業的な管理教育から農業的な教育』に改革するべきだ」と「人材の危機」を主張します。人間の尊厳とはナザレのイエスのような責任感とでも言える、自立した「志・エレメント」を持つことだと気づかせるのです。
 つまり、マリア様でもムハンマド様にでもなく、今生きている時代に「責任」を持ってこそ自分の「尊厳・賜物」を頂戴し、そしてそれが本物であるしるしは「神に感謝」なのです。私たちの教会は「格差社会・人材危機」の時代にその必要に応えなければなりません。 以上