司祭 サムエル 門脇光禅
『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』【サムエル記上3章9節】
日曜学校に通っていた頃、先生からこのお話を聞いて初めて幼稚園の壁の聖画が男の子であることを知りました。
ダビデに油を注ぐ大預言者サムエルのイメージではなく、かわいらしい天使のように、お祈りするサムエルの姿がとても好きです。
今も、牧師の執務室と勤務している幼稚園玄関に飾っています。自分の洗礼名もサムエルの名をいただきました。
『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』この言葉はサムエルの師匠エリから教えられた「祈りの言葉」と言えます。祈りには、2通りあると思います。
ひとつは、「主よ、お聞きください。僕(しもべ)は話します」であり、もうひとつは「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」と言えます。「話す」主格が人間にあるか、神さまにあるかの違いでしょう
昔、隣の家に新興宗教に熱心な方が住んでいまして、毎朝熱心なお祈りが聞こえていました。「どうぞ、私ども家内が安全で、商売が繁盛し、健康で長生き、また、長男の○○が○○できますように、長女の○○云々・・」と願い事が延々と続くのです。これには、神さまも覚えきるには大変だろうと当時妻と笑ったものです。
このことだけはと、どうしても神仏に願い事を叶えてもらいたいとき昔から神社仏閣に「お百度参り」という参拝方法があります。
「主よ、お聞きください。僕(しもべ)は話します」を百回もするのです。
気持ちは良く分かるのですが、イエスさまはそのようなお祈りの仕方は間違っていますと戒められています。山上の説教の中で「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ6:7)と言われています。
イエスさまのお言葉によると、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(同6:8)というものです。
私たちはそのことを知らされたものであるはずです。
従って私たちはもはや「聞き入れられる」ことを願う必要があるでしょうか?
なぜならすでに必要なものは聞き入れられているからです。
ですから、できるならば、キリスト教徒の祈りは「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」という「話す」主格が神さまの祈りでありたいものです。
どんなに泣いている子どもも母の腕の中ではだんだん心が静まっていきます。
私たちを取り巻く環境は、多くの矛盾や不条理が横行しています。私たちはその中でキリスト教徒として生きることに悩み苦しんでいる現実があります。
だからこそ、母の腕の中で子守歌を聴くように神さまの語りかけを聴(耳へんに十四の心)いて希望と力を与えられ生きていくべきと思うのです。
祈りとはまさに激動の世の中で神さまの福音の証人として生きようと願う者が耳を傾け神さまのみ声を聴くときのことではないでしょうか。