司祭 ヤコブ 岩田光正
「聖霊で洗礼をお授けになる方」
福音にはイエス様が洗礼者ヨハネの洗礼を受けに来られたとあります、当時、ヨハネの行っていた洗礼は罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼でした。つまり、洗礼は罪の悔い改めが目的でした。イエス様もヨハネのことは当然、知っていたはずです。もうそうならば、この事実に私たちは不思議な感じを覚えずにはおられません。何故ならイエス様にも悔い改めなければならない罪がおありだったのか、そして、イエス様ご自身、罪の自覚がおありだったのか、そんな疑問を持ってしまうからです。
イエス様がヨハネから洗礼を受けられた真意は何だったのでしょうか?
イエス様がこの時ご自分が神の子であるという自覚を持っていたとすれば、世のカリスマ的な指導者たちがそうであるように尊大に振舞っても良かったはずです。自分は非の打ち所のない完全無欠の存在だ、だから赦してもらう罪などないんだ・・・自分は生きる世界が違うのだ・・私たちは生きる世界、生きてきた世界が余りに掛け離れている人に対し次元が違うという言葉を使いますが、イエス様もそう振舞うこともできたはずです。しかし、イエス様は違いました。イエス様は私たちと同じ次元に立ってくださいました。イエス様のヨハネからの洗礼は身を持ってこの真実を示してくださった出来事です。
イエス様は、神の身分でありながら、自分を無にして、私たち人間といつも同じ次元に立ってくださいました。私たち人と同じ乳飲み子として生まれ、その8日後には他のすべての男の子と同じように割礼の儀式を受け、一人の人として「イエス」と名付けらました、そして幼少年、青年期を経て成人され、いよいよ父なる神様のみ旨を果すために歩み出されます。その間、イエス様は私たち人間が生きていく中で味わう様々な喜怒哀楽を経験されたはずです。そして、受ける必要もない洗礼を受けてくださった。福音はその直後の様子を活き活きと描写しています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、”霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。」(1:9)
イエス様は私たちと同じ次元に立って洗礼を受けてくださいました、父なる神様はそのことでイエス様を愛する子とされたのです。イエス様ご自身、この瞬間、天から父の声を聞きました。そして、イエス様は確信しました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
さて、この時のヨハネからの洗礼はこの後イエス様が父のみ旨を果すためのある出来事を指し示すことになりました。ある出来事とは、もちろん十字架の出来事のことです。イエス様はこの洗礼によって、やがてご自分が十字架で担われることになる私たちの罪を私たちに代わって父なる神様に悔い改めてくださったのではないでしょうか?
神の子でありながら私たちと同じ次元、否むしろ罪深い人よりも低い次元に生きられ、更にこれ以上もはや低い所のない極限の中で私たちの死まで死んでくださったイエス様。
フィリピの信徒の手紙にあるキリスト讃歌が想起されます。
「キリストは神の身分でありながら、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:6−7)
ここに至り私たちは洗礼者ヨハネがイエス様と出会う前、ヨルダン川で宣べ伝えていた預言が理解できます。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」(1:7) 当時、主人の履物のひもを解くのは僕である奴隷の仕事でした。そのお方は、ヨハネにとっては自分が僕(奴隷)にも遠く及ばないくらい優れたお方でした。しかし、そのお方は、人に仕える僕、否、最も低い所に立たれる僕となることで優れた方だったのです。そして、神様の愛する子、み心に適う者となられたのです。
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 ヨハネが言った通りこのお方は、後に人に聖霊として洗礼を授けることになりました。
最後、私たち教会はこの聖霊の洗礼で神様の愛する子とされています。私たち一人ひとりは、たとえ血縁では異なっても教会という家族、イエス様によって授けられた聖霊の洗礼によってつながっている家族です。その上で神様は私たち教会がイエス様がそうであったように人に仕えて生きることを求めておられるのです。