2014年12月28日      降誕後第1主日(B年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

イエス様は恵みと真理に満ちた平和の光

『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』 (ヨハネによる福音書1:14)

 クリスマスおめでとうございます。

 20日に私が園長をしている幼稚園でクリスマス・ページェントを行いました。年長組・年少組はヨセフ・マリア・羊飼い・博士・天使・宿屋・動物などの役を歌とセリフで、年中組は歌と言葉でナレーションを担い、立派に聖夜を再現し、家族の方々と共に神様にイエス様のご降誕の喜びと感謝をお献げしました。「光あれ」という言葉から始まったこの世界に神様の独り子であるイエスが私たちと同じ肉体をもってご降誕された出来事。イエス様の光に照らされ、恵みと真理に満ちた素晴らしいひと時でした。

 園児たちは理屈抜きに神様の存在を信じています。イエス様が共にいて守ってくださっていることを信じています。たとえ、友だちとけんかをすることはあっても、意地悪をしてしまうことはあっても、友だちに優しくし、仲良く助け合って力を合わせることが、神様に喜ばれることであり、平和であることを知っています。イエス様が私たちのために、私たちが平和に過ごすことができるようにとこの世に生まれてくださったことを知っています。そして、その出来事がクリスマスであることを知っています。

 しかし、日本を始めとして世界中を見るとどうでしょうか。宗教に名を借り、あるいは自己の欲求を満たすために、希望に満ち溢れた子どもたちの将来をいとも簡単に奪ってしまう人たちが後を絶たないという悲しい現実があります。

 子どもでも知っている平和。それなのになぜ、大人の中にはあらゆる人と平和な関係でいることを望まない人がいるのでしょうか。この世界には様々な国・様々な民族がそれぞれいろいろな価値観を持ち、また一人ひとりも違った性格・能力を持っています。ですから弱く不完全である人間にはすべての人と仲良く助け合って過ごすことはできないかもしれません。しかし、尊い命を持った同じ人間が、なぜ他者の命を軽んじてしまうのでしょうか。他者の命を大切にすることができないのでしょうか。

『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである』 (ヨハネによる福音書1:18)

 「互いに愛し合いなさい」との掟を与えられたイエス様。目に見えない神様の愛を示すために、イエス様が肉体をとってこの世にご降誕され神様の愛を実践されました。それによって私たちは神様の愛を知り、人々と愛し合って過ごすことが平和であることを知りました。

 イエス様は恵みと真理に満ちた平和の光です。イエス様ご降誕を祝い感謝する時、私たちの心に平和の灯がともされ、すべての命を大切にする心が生まれることを望みます。