2014年11月23日      降臨節前主日(A年)

 

執事 アントニオ 出口 崇

「最も小さい者」

 目の前を歩いている人が財布を落とし、それを拾った人に対し、「中身の現金が足らない、取っただろう」と言いがかりをつけてお金を奪う。という旅行者を狙った犯罪が外国ではあるそうです。いろんなことを考える人がいるものだとは思いますが、私も以前同じような経験をしました。
 目の前で財布を落としてスタスタと歩いていく女性を「ハロー、ハロー」と恐る恐る呼び止めたのですが、聞こえているはずなのに返事をせず、歩いていきます。
 結局人の財布を触ることに抵抗があったので「まあいいか」と私もその場を立ち去ったのですが、私が財布を拾っていたら、状況は変わっていたのかもしれません。
  ・本当に落としたのを気付かなかった女性に感謝される。
  ・「私の現金が無い」と女性が言い、周りの人たち(仲間)に、「この日本人がお金を抜いたのを見
   た」などと騒ぎたてられる。

 善意、好意があだになることはたくさんありますし、私が優しくなかっただけなのかもしれません。

 福音書では最後の審判、裁きについて語られています。
 神様が注目するのは、「最も小さな者にしたこと」すぐそばで困っている人を助けたかどうか。私たちも身近な人を大切にしなさい。というイエス様の教えですが、私たちが意識して行っている行為ではないようです。王の左右に分けられた人たちは、自分が何をしたのか分かっていません。

 「お前は財布を落として困っていた人を助けなかった」と言われ、王の左側に置かれるかもしれません。左側にいる要因は他にも数え切れないくらいあります。

 十字架の上で「最も小さい者」とされたイエス様を助けた人は誰一人いませんでした。しかし、イエス様にとって、私たち一人ひとりこそが、自分の命を賭してでも助けたい「小さな者」であり、全ての人たちを神様の右側に置かせるために、十字架にかけられ復活なさいました。
 裁き、審判と言う例えを語りながら、私たち一人ひとりに対する愛、強い思いを示してくださり、「愛された者として生きよ」と命じられているのではないでしょうか。

 知らず知らずのうちに、イエス様のとりなしを受けたもの同士、周りの人たち、また自分自身をも大切にしていければと思います。