2014年11月9日      聖霊降臨後第22主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 荒木太一

イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。(1テサ4:14、口語訳)

 この秋、上野教会もまた一人の信徒をこの世から見送りました。施設での生活、ご臨終の時、そして葬送への一連の中で印象に残ったのは、家族や信徒や牧師が彼女に触れる場面でした。特にコミュニケーションが困難になってからは、それが大切になりました。祈りの終わりには必ず手に触れて「アーメン」と握り、確認しました。

 そう、確認します。わたしたちは、愛する家族や愛する人に触れて「ここにいる」と確認し、「ここにいるよ」と伝えたい時があります。手のぬくもりを通して「確かにここで生きてるよ」と。そして、大切な人が死んだ後にも「触れたい」と思うことがあります。命を感じないことをも手で触れて確認します。そして感じない中で願います。「ああ、もう一度会いたい、生きてるあなたに、会いたい」と。存在は体で感じるのです。

 常識を超えて教会は信じます。わたしたちの体は復活する、と。なぜならわたしたちが信じる主イエスさま自身が死に、しかし体ごと復活したから。体のないフワフワ浮いてる魂じゃない。手を握って頬を包んで「ここにいる。ここにいるよ」と確認できるくらいに温かく近く感じられる命。どんな病気や障害による、苦しみや悲しみも、一瞬で消し去ってくれるような生きている喜び。そしてみんな主イエス様と会い、愛するあの人と会える。復活は体ごと感じる愛する人との再会。わたしたちはそれを自分の希望にしていいのです。それを希望にして生きて、死んで、いいのです。