2014年11月2日      聖霊降臨後第21主日(A年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

「しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」

 教会のフェンスの下の煉瓦積みのところから日々草が花を咲かせました。登園してくる子どもたちや保護者の方々に「ちょっとここを見てください」といいながら、小さな一輪の薄桃色の花と、生命力豊かな緑の葉に驚いています。
 フェンスの内側にある花壇から伸びてきたのか、はたまた以前植えた日々草の種がうまく煉瓦の隙間に入ったのかは定かではありませんが、煉瓦の細い隙間にはしっかりとした茎が伸びています。その生命の強さに朝から感動し、驚いていました。
 花は花壇やプランターに植え、しっかりと水や肥料を施し、よい土の中で育てるのは園芸をする人であれば、当然のことだと言うに違いありません。しかしながら、不十分な環境の中で咲かせたその花は決して見劣りもせず凜として咲き、存在感を示しています。
 教会暦A年のマタイの福音書のファリサイ派、律法学者たちとの論争もまもなく終わり、イエスの十字架が近づいてきました。それと同時に新しいカレンダー、B年のご降誕への備えの時が近づいてきます。このテキストで批判されているファリサイ派の人々は、言い換えるならば立派な庭に植えられ、肥料もよく施された土の中に生き、大輪の花を咲かせているようなものかもしれません。それ故に、上座を好み、人から賞賛されることを自ら求めている、そんな風にも言えると思います。片や、煉瓦の隙間から生え出て咲いた花は、世の隅で小さくされた人々のような気もします。
 しかし、大切なのは花として精一杯咲いているか、それを見た人々がその命に感じて勇気づけられるような花であるかなのだと思います。この煉瓦の隙間に生え出た一輪の花は決してプランターや花壇の花となんらかわりはありません。
 イエスは「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言ってくださいます。今、私が生きている環境がどのように不十分なところ、ものであれ、小さくされ、へりくだる者にイエスは目をとめてくださいます。なんとありがたく、恵みに富んだことでしょうか。
 主に感謝。